冗談。

 桔平が家にたどり着く頃には、駅前はすでにうっすらと夕闇に覆われて、町並みは夜の装いを見せている。冬の日の入りの早さを感じながら、いつの間にかクリスマスのイルミネーションから、正月飾りに模様替えした商店街を抜けて、足早に家路をたどれば、朝、黒羽とともに歩いた時間が急に遠い思い出のように心によみがえってきた。数時間。そう、たった数時間前のできごとにすぎないのに。隣にあの巨漢がいないことが、こんなにも物足りなく感じられるとは。そんな些細なことがなんだかやけに癪にさわって、桔平は黒羽のことを考えるのをやめようと決めた。
 しかし。
 そんな決意は役に立つはずもなく。
 家の扉を開けるまでの数分間で、桔平は五回もその決意をし直さねばならなかった。

 そして。
「ただいま。」
 玄関を開ければ、リビングで漫画を読んでいた杏が「ん〜。」と間延びした声を返し、普段の生活が戻ってきたことを改めて実感する。黒羽がいたなら、杏はこんなぶしつけな返事をするはずがないのだから。
「どこ行ってきたの?」
 リビングにコートを脱いで、手を洗いに洗面所に行こうとした桔平に、杏が尋ねる。さっきまで夢中で読んでいた漫画は無造作にソファに伏せられ、興味津々な眼差しを桔平に向けて。
「……都庁の展望室があるだろう?あそこに行ってきた。」
「うわぁ!」
 芸のない東京観光だと笑われるかと思っていた桔平は、嬉しそうに目を輝かせる杏にぎょっとする。
「な、なんだ?杏。お前も行きたかったか?」
「えへへ。私が行ったら邪魔でしょ?」
「……そんなコト、ないが。」
「やだ〜。お兄ちゃんってば!!都庁の展望室なんてデートコースの王道なのに、妹連れて行ってどうするのよ!黒羽さん、がっかりするじゃない!」
「……で、でーとこーす?!」

 ドアノブに手を掛けたまま、桔平は凍り付く。杏は何を言っているんだ??
 ……いや……そういえば、確かにカップルが多かったな……。
 そこまで思い出して桔平は額を押さえた。

「お兄ちゃんが誘ったの?」
「……いや、黒羽が遠くまで見える場所に行きたいと言ったから……。」
「うふふ。黒羽さんって意外とロマンチックな人ね!」
「ろまんちっく……!」

 黒羽ほどロマンチックという言葉に縁のない男も少ないだろう、と、桔平は自分を棚に上げて考えた。そしてふと、自分自身の存在を思い起こし、俺も黒羽に負けない、と自負してみた。
 だが、そんな自負は何の役にも立たず。

「もっとゆっくりできたら、夜景も見られたのにね。あ、都庁に行ったなら、ついでにミレナリオも見てこられたらよかったよね。黒羽さん、おうちが遠くて残念!」
「みれなりお??」
「この前、テレビでやってたやつ!!東京駅の前のイルミネーションだよ!すごいきれいだったじゃない!」
「あ。ああ。」
 そういえば、そんなものもあったような気がするが。
 桔平はあまりイルミネーションだの夜景だのに興味はなかったし、第一、何が悲しくて黒羽と二人でそんなものを見に行かねばならないのか、さっぱり分からなかったが。

「昨日の夜に思い出してたら、行かれたのにね〜。う〜ん、もったいないこと、しちゃったな!」
 杏が自分のことのように残念がるのを聞いて、何となくもったいなかったような気もしてはくる。
「しかし。」
「ん?」
「確か、あれはずいぶん人が多くて歩くのも大変なんだろう?テレビでそう言っていたぞ?わざわざ夜遅くにそんな電気祭りなど見に行かなくても……。」
「お兄ちゃん!電気祭りは秋葉原の家電製品の安売りセールのことだよ!!ミレナリオはイルミネーションだってば!!」

 杏と桔平は、しばらくの間、黙って見つめ合い。
 小さく杏がため息をつくと、桔平も同じくため息をつき。
 それからようやく、桔平は扉を押して、手を洗いに行った。

 蛇口からあふれる水が冷たい。
 振り向いても、この三日間ですっかり見飽きたあの男がいない。
 そんな当たり前の日常が戻ってきていて。

「杏、ウーロン茶飲むか?」
「ん!お願い!氷も入れてね!」
「体、冷えるぞ?」
「だって、お兄ちゃんが淹れると渋いんだもん。」

 そんな当たり前の。

「茶こし、どこにしまった?」
「あ、洗い上げんとこに置いてない?」
「……ああ。すまん。あった。」

 いつもと変わらない生活が。

「ねぇ?」
「うん?」
「朝の……十時すぎだったかな、みんな、うちに来たんだよ。」
「みんな?」
「石田さんとか深司くんたち。」

 戻ってくる。

「何かあったのか?」
「ううん。黒羽さんが帰る前に挨拶したくて、来てくれただけ。」
「そうか。それは悪いことをしたな。」
「うん。でもお兄ちゃんたち今日はデートだから、張り切って朝から出かけちゃったって言ったら、みんな納得して帰っていったよ?」

 ……と見せかけて、戻ってこなかった。

「ちょっと待て!!杏!!」
「ん?」
「……で、で、でーと……と、言ったのか?」
「うん!」

 桔平は健康な中学生だったので、立ちくらみなどというものは、ついぞ経験したことはなかったのだが、そのときばかりは、くらくらする、という感覚を理解した。
 あいつらは、たぶん、納得して帰ったのではなく、呆然として返す言葉も見つからず、黙って帰っていっただけに違いない。おかしいだろうが。男同士なんだぞ?俺と黒羽は!

「そんな照れることないのに。」
「照れているんじゃなくてだな……!」

 やかんがしゅんしゅんと音を立てて、湯気を吐き出す。

「深司くんだって、ぼやきもしなかったよ?完璧無駄足になっちゃったのに。」
「……そうか……。」
 深司がぼやけないほどの衝撃。ああ。可哀想にな。深司。
 きっと神尾などは涙目になっていただろうし、森は内村のジャンパーの袖にしがみついたに違いない。内村はきっと帽子を深くかぶり直し、石田は桜井に目をやって助けを求め、桜井は困惑したように瞬きを繰り返したことだろう。可哀想にな。本当に。

「杏。あいつらはそういう冗談に慣れていないんだ。手加減してやれ。」
「冗談じゃないってば。もう。お兄ちゃん、照れすぎだよ?」

 杏のお気に入りのマグカップに濃いめのウーロン茶を注ぎ、大きめの氷を二つ、放り込んでやりながら、桔平は静かにため息をつく。
 黒羽が佐伯は冗談が過ぎる、とよくぼやいていた理由が、今ならよく分かる。

「ほら。氷、入れといたぞ?」
「ありがと!お兄ちゃん!」

 そう思いながらも。
 結局はだんだんに、否応なく日常が戻ってくるのだ。
 それが嬉しいようで。
 寂しいようで。
 桔平は、帰宅後何度目かのため息をついた。
 そんな兄の姿を、杏は優しく見守って、ふふっとほほえんだ。


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