遠くまで。

 リビングは朝の清々しい空気に満ちていた。
「お兄ちゃんたち、今日はどうするの?」
 桔平たちが朝ご飯を食べ終えるころ、ようやく起きてきた杏。
 一緒に食事をする二人の姿に微笑んで、小さくあくびをかみ殺しながら尋ねる。
「デートすんだ。デート!」
 冗談めかして黒羽が宣言すれば。
「わぁ。楽しんできてね!」
 と、杏が笑う。
 そこで、「デートって誰と?」という疑問が出てこないトコがオカシイんじゃないかと、黒羽は心密かに思ったのだが。
 自分がデートだと言いだした手前、杏に突っ込むのも気が引けて、曖昧に笑って頷く。
「で、どこ行く?黒羽。」
 曖昧にリアクションを誤魔化しているのは桔平も同じことで。
 さりげなく話題をすり替えてくれた桔平に感謝しつつ、黒羽は首をひねった。
「どこが良いかなぁ。俺が行ってない東京名所……。」

 台所で牛乳をグラスに注いで戻ってきた杏が、にこにことアドバイスをする。
「あのね、美味しいクレープのお店、知っているんだけど、教えてあげようか?」
 杏の親切な申し出に、黒羽も桔平も振り向きざまに同時に凍り付き。
「杏……男二人で、クレープを食っているのは、何だか嫌な風景じゃないか?」
 辛うじて桔平が恐る恐る問い返したのだが。
「やだなぁ。お兄ちゃん!ダメだよ、人目を気にしちゃ!」
 あっさりと笑い飛ばされる。

 そんな杏の対応に、困り果てた目で、頬を軽く掻きながら。
「杏はそういうデートをするわけな〜。」
 探るように黒羽が口を開けば。
「私のコトはどうでも良いでしょ!黒羽さん!」
 案の定、杏は顔色を変えて反論してきて。
「あーあ。杏の彼氏は幸せもんだよな。な?橘?」
 にやにや笑う黒羽。杏が誰と付き合っているか知っていながら名前を出さないあたりが黒羽らしいところだ、と。静かに微笑みながら、桔平は剥き終えたリンゴをそっと黒羽の前に差し出した。
「これを食ったら出かけるか。」
 今日のリンゴは全てウサギである。

「行ってらっしゃい!」
 満面の笑顔の杏に送り出されて、家を出た二人は。

「結局、都庁かよ。」
「見晴らしの良いところと言ったら、高尾山か東京タワーかここしか思いつかなくてな。」
 遠くまで見えるところに行きたいという黒羽の希望を聞いて、桔平が三十秒考えて出した結論が都庁であった。
「東京タワーには行ったことがあるのだろう?」
「おう。高尾山は遠そうだしな。」

 エレベーターを下りれば、そこは眼下に東京を一望できる展望室で。
 親子連れやカップルに混じって、ゆっくりと歩く。
「あれ、東京タワーだよな!」
「そうだな。あっちが国技館。サンシャインも見えるぞ。」
 黒羽はガラス戸に張り付くように下界を見下ろして、嬉しそうにあちこち指さしては笑う。
 こんな風に全力で喜んでもらえたら、一緒に来た甲斐がある。
 人の好意をありのまま受け止められるのは、黒羽のすごいところだな。ホントに。

「あー。面白ぇな。やっぱ。地図で見るのとずいぶん違うや。」
 そう言って、黒羽は顔を上げて。
「都庁もなかなか悪くねぇな。」
 と、笑った。
「橘サンにしてみれば、同輩なんかとデートじゃつまんねぇだろうけどよ。」

 一瞬。
 桔平は答えられなかった。
 言葉が見つからなかったのではなく、答えが見つからなくて。

「あー?」
 無言の桔平に、黒羽が不安げに振り返る。

「いや。」
 小さく首を振って。
「いや、って何だよ。橘。」
 真っ当な疑問を口にする黒羽に、桔平は小さく苦笑しながら。

「同じ学年の友人というのは、良いなと思ってな。」

 その言葉に黒羽は目を大きく見開く。

「何だよ?悪いもんでも食ったか?」
「いや。」
 あまりといえば、あまりの黒羽の言葉に、桔平は苦笑を深め。
「あー。……ホントは……寂しかったのか?お前。」
 困惑したように問いかける黒羽に、言葉を失う。

「……寂しかった?俺がか?」
 オウム返しに問い返せば、黒羽は少し首をかしげて。
「なんつうの?寂しかったっていうか、物足りなかったっていうか?」

 ガラス戸の向こうに広がる東京の町並みは。
 整然として、ぎっしりと建物が建ち並んで。
 見る人を静かに圧倒する。

「……お前となら、対等でいられるからな。それが居心地が良いんだ。別に寂しかったわけじゃない。」
「あー。」
 黒羽が目をそらすように窓の外に視線を移すので。
 変なことを言ってしまっただろうか、と、桔平は少し戸惑ったが。

「俺は……テニスじゃお前に勝ち目ねぇだろ。全然、対等じゃねぇ。」
 目をそらしたまま、黒羽がそっと呟くのを聞いて。
「テニスはどうでもいい。」
 目を伏せて、本音を口にしてみる。テニスが問題じゃない。人間の器の問題だから。
 しかし、黒羽にとってはそういう話でなかったらしく。
「なんだよ。俺が謙遜してるんだから、黒羽もなかなか強いぞとか、何とか、もう少しフォローしろよ!」
 窓の外に目をやったまま、ぷぅっと頬をふくらます。
「すまん。……お前が後輩だったら、間違いなくそう言ってフォローしていただろうな。悪かった。」
 苦笑しながら桔平が言い訳すれば。
「……そっか。そんなら、フォローしてくれなくて良いぜ?」
 黒羽が笑った。後輩じゃないから、対等な相手だから、そのままで付き合える。気兼ねなく、ありのままの自分とありのままの相手を受け入れられる。そうなんだ。だから居心地が良いんだ。
「そのうち、テニスでも対等になってやるかんな!」
「楽しみに待っている。」
 黒羽の言葉に嘘はない。本当に対等になれるかはこの際問題ではなくて。本気で強くなろうと願っているコトは紛れもない真実だから。

「ま、長い目で見ててくれ。80歳までには追いついてやる。」
「それはずいぶん長期戦だな。」
 くつくつと喉の奥で笑いながら。
 桔平は遠い空を見た。

「お前んち、どの辺だ?」
「うちか。うちはたぶん……。」
 眼下には東京の町。
 きっとそのどこかに、後輩達や杏が生活しているのだ。
 壁に貼られた東京の地図に目をやりながら、桔平は自宅の辺りを指さす。
「あの建物がたぶん不動峰の校舎だな。」
「おう。」

 今まで寂しかったわけではない。
 決して寂しかったわけではない。
 だけど。

「良い眺めだな。」
 黒羽の隣りに寄り添うように立って、冬の日差しにそっと手をかざせば。
「ああ。これであそこに見えるのが外房の海だったらもっと良かったのによ。」
 東京湾を指さしながら、黒羽が穏やかに優しく呟いた。


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