「これ、忘れるなよ。」 明日の目覚ましまでセットして、もう電気を消して寝るだけの状態になって。 橘はふと思い出したように、黒羽にCDを手渡した。 それは、昼間、黒羽が神尾から借りたもので。手ぶらでラケットだけ背負って歩いていた黒羽は、ナップザック持参の橘に、預けていたのだった。 「お前が洋楽を聴くとはな。」 布団に座り込んだまま、黒羽は腕を伸ばしてCDを受け取り。 「神尾がこれすげぇ良いって言うからさ。聴いたら、リズムを究められるかもしれねぇしよ。」 言ってにやりと笑うと、鞄に放り込む。 「預かっててくれて、サンキュな。」 橘は自分のベッドで。 黒羽は、床に敷いた客布団で。 やはり布団が寝心地が良いから、と主張する黒羽にそちらを譲って。 ぼんやりと、のんびりと、しかし、今を惜しむように。 「橘ってさ、どんなCD聴くんだ?」 「……英語のリスニング教材とか。」 「……へぇ。んなもん、俺、開封したことすら、ねぇよ……。」 「……一度くらい、聴いてやれ。可哀想だろう。」 「……面白いのか?あれ??」 黒羽は布団に胡座をかき。 橘は、ベッドの端に腰を下ろして。 灯りを消して、目を瞑るのがもったいない。 そんな一時。 「面白いものじゃないが……なかなかためになる。」 「そっか。」 「俺が薦めたせいで、最近、深司も聴き始めたらしい。ミニテストで成績が上がったと言っていた。」 「ふぅん。そんなもんかね。」 そう相槌を打ちながら、黒羽はそっと時計に目をやる。 そして、静かに橘に目を戻し。 「神尾は洋楽を聴いているんだから、少しくらい英語が得意でも良さそうなものだがな。」 「だよな〜。」 どうでも良い話題。どうでも良い会話。 そんなコトが楽しくて。 時間はあっという間に過ぎてゆく。 話題がめぐり、最初何を話していたのか、もう分からなくなってきたころ。 黒羽はもう一度、時計を見やって、今度はにやりと笑った。 「はい、ちょっとストップ!」 「どうした?」 いきなりのストップに、何をストップして良いのか分からず、橘は驚いたように問い返すが。 黒羽はにやにやと、橘の顔を見て。 「今、俺、10分間計ってたんだよ。」 「10分?」 一瞬の間をおいて、橘が眉を寄せる。 何をされていたか、見当が付いたのだろう。 「今の10分間で、お前、何回後輩の名前呼んだか、分かるか?」 「……さぁな。」 「27回。」 「……27回……。」 「一応、全員出てきたぜ。神尾、伊武、石田、桜井、内村、そんで森ね。あと、ダビのコトも一回呼んでたな。」 振り返ってみても、この10分間、黒羽がわざわざ誘導尋問めいた話の進め方をしていた記憶はない。むしろ、聞き役に徹していた。橘の話したいように話させていた。それは間違いない。 だとしたら。 全く、自分は油断しすぎだ……。この男が相手だとな。 ふぅっと、橘は小さく息をつく。 「この前の賭け、覚えてるか?」 「……ああ。10分以内にお前が3度、天根の名を呼んだら、お前の負けという、あれだろう?」 「ああ。」 黒羽は嬉しそうに、しかしちょっと意地悪く笑う。 それに応えるように橘は小さく息を吐いて。 「分かった。今日は俺の負けだ。」 「昨日は引き分けだったけどな。今のは橘の負けな。」 こんなところでしっぺ返しを喰らうとは。 些細なコトなのに、やけに悔しくて、悔しがっている自分が可笑しくて、橘はベッドに深く座り直す。 「後輩大好きの橘サン、負けたからには、罰ゲーム!」 「罰ゲーム?お前が負けたときには何もなかっただろう?」 「あー。細かいコト、気にするなって。」 冬の冷たい気配は、ストーブをつけた部屋の中にも、壁伝いに染みこんできて。 外の闇とともに、静かに部屋を包み込む。 罰ゲームはあらかじめ決めてあったらしい。迷うことなく口を開く。 「あんな、ダビに東京土産、くれよ。」 ああ。そんなコトか。 橘は黒羽にばれないようにそっと微笑んだ。 この男だって、結局は可愛い後輩のコトばっかりなんだ。 「天根は……何が欲しいんだろうな。あいつもよく東京には来ているだろう?」 「そうだけどさ。橘のくれる土産だったら喜ぶだろうし。」 「何が良い?」 時計の針がかちりと進む音さえ聞こえるような。 澄み切った冬の夜。 年の瀬はすぐそこまで迫っていて。 「あー。あのさ。メモ帳でも何でも良いから、ダビに手紙書いてやってくれよ。短くて良いからさ。」 少しだけ、言いにくそうに、気恥ずかしそうに黒羽が言う。 「手紙?」 そんなモノで良いなら、おやすいご用だ。 普段は手紙など、滅多に書かないが。 だから、便箋など、持ち合わせていないが。 それでも良いのなら。 机の引き出しからレポート用紙を引っ張り出して、手近にあった雑誌を机代わりに、ベッドの上でシャーペンを握る。 「改めて紙に向かうと照れくさいな。」 「何でも良いって。ただ、橘から手紙がもらえたら、そんだけで嬉しいんだから。あいつは。」 電話をかけてもらっただけで、あんなにはしゃいでいたんだから。 きっと喜ぶ。 ダビデは、ホントに橘サンが好きなんだから。 ベッドに寄りかかるようにして、黒羽は橘が紙に向かうのを眺めていた。 「……天根……。名前はヒカルで良かったか?」 「おう。カタカナでヒカル、な。」 「……天根ヒカルさま。……冬休みのうちに、暇があったら遊びに来い。待っている。橘桔平。と。これで良いか?短いが。」 「ああ。ありがとな。すげぇ喜ぶぜ。ダビデ。」 受け取った手紙をたたんで、鞄の一番奥にしまい込んで。 「そうだよな。冬休み中にまた来るぜ。神尾のCDも返さなきゃなんねぇし。」 当たり前のように自分も来る気になっている黒羽に、橘は意地悪く声を掛ける。 「……天根だけじゃなくて、お前も来るのか?」 「なんだよ、それ。」 少しびっくりしたように振り返る黒羽。橘は精一杯表情を押し殺して言った。 「俺は天根しか呼んでないぞ。」 「……なっ!」 「あいにく、俺は後輩大好きの橘サンなもんでな。」 何か、言い返してくるかと思ったら。 黒羽は、いたく傷ついた顔をして、ふいっと目をそらして。 反論一つせず。 「じゃあ、CDはダビに持たせるからよ。」 拗ねたように小さく呟きながら、ぱたりと寝そべった。 いつもはあんなにオトナびた黒羽が。 「…………。」 あんまりにも幼い顔をして拗ねるので。 橘は吹きださないようにするので精一杯だったが。 「冗談だ。気を悪くするな。」 そっと、灯りを消して。 「お前がいなければ、天根が寂しがるだろうが?」 ベッドに戻るついでに、黒羽にふわりと布団を掛けてやれば。 「仲間はずれにしたら、ちゅーするぞ。橘。」 布団の中からくぐもった声がする。 「必ず、一緒に来いよ?黒羽。お前がいなければ、何より、俺が寂しいからな。」 ゆっくりと言葉を選びながら声を掛ければ、黒羽は布団の中で軽く身じろぎをして。 「……当たり前だろ。」 と、小さく応え。 橘はそっと微笑んだ。 |