それはクリスマスパーティが終わった後のできごと。 「さようなら!橘さん!」 「今日はありがとうございました!」 「黒羽さんもまた明日!」 少年達が口々に挨拶を残して、橘家を後にする。 そして、戸口に残されたのは黒羽と桔平。 玄関に散乱していた靴は、あっという間になくなって、今までの喧噪もどこへやら、急に辺りが広く感じられて。それでも、何かが足りなくて。 「あれ?杏は?」 辺りを見回して、黒羽が尋ねると同時に。 「お兄ちゃん!ちょっと私、買い物行ってくる!」 コートを羽織った杏が玄関に飛び出してきた。 「こんな時間にか?」 「うん!今日じゃないと困るの!!」 少し焦ったように言いつのる杏の言葉は、どこか言い訳めいて聞こえて。 全部が嘘なわけじゃないけども、どこかに嘘が混じっているような響き。 黒羽は首をかしげ。 「俺も一緒に行こうか?暗いし。」 「ううん!一人で平気!駅前のコンビニに行くだけだし!」 杏のリアクションは、黒羽の予想通りのものだったが。 おそらくは、桔平は杏を一人で出したりはしないだろう、と考えていた黒羽は、微笑みながら頷く桔平に少しだけびっくりする。 「気を付けて行ってこい。」 「うん!行ってきます!!」 慌てて羽織ったコートはボタンも留まっていなくて。 玄関に置いてあったマフラーを掴んだまま、杏は家を飛び出してゆく。 「良いのか?もう遅いのに。」 「あのまま行けば、あいつらに追いつくだろう?」 桔平が指す「あいつら」は、さっき家を出て行った不動峰の後輩達に違いない。 なるほど、杏が慌てていたのは「あいつら」と合流するためか、と納得する。 確かにあれだけたくさん、「ナイト」がついていれば、桔平も安心して妹を任せられるというモノか。 冷たい空気を存分に吸い込んで、桔平は扉の外に身を乗り出し、妹の背中が見えなくなるまで見守っていたが。 「杏ちゃん!」 遠く聞こえる神尾の声に、そっと扉を閉めて。 「追いついたらしい。」 と、小さく笑った。 「ま、途中までは良いけどさ。帰りは?杏、一人じゃねぇの?」 「心配いらない。コンビニは石田の家の近所だからな。」 「……は?石田の家の近所って?」 桔平の言葉の意味を察しかねて、黒羽はそのまま反問するが、桔平は答えようとせず、リビングへとすたすた戻ってゆく。 少しだけその背中が、照れくさそうに笑っているのに気付いて。 「……もしかして石田と杏って付き合ってんの?」 さすがの黒羽も事情を理解する。 「らしいな。」 受け流すように答える桔平。色恋沙汰の話題など、あまり得意ではないのだろう。ことに自分の妹と後輩の関係など、友人に語るには何か気恥ずかしい。 「へぇ。杏ってば、石田みたいなのが好きなのか〜。」 しみじみと納得したように黒羽は呟いて。 「なんだよ、俺が杏と結婚して、橘を『兄貴!』って呼んでやろうと思っていたのに!」 「それは残念だったな。」 リビングのソファに腰を下ろした黒羽に残っていたポップコーンを手渡しながら、桔平はくつくつと笑った。もちろん、黒羽も応えるように声を殺して笑った。 別に、杏がそこにいるわけではないのだから、声を上げて笑えばいいのだが。 なんとなくヒミツめいた雰囲気が楽しくて、二人はしばらく声を殺して笑い合っていた。 「じゃあね、杏ちゃん!石田!」 「おやすみ!森!」 「今日は来てくれてありがとうね。森くん!」 一人、また一人と分かれ道で手を振って。 ついに最後まで一緒だった森がなんだかやけに足早に立ち去って。 残されたのは、石田と杏の二人。 「コンビニで買い物?」 「うん。」 「何買うんだ?」 「……何買おうかな?」 「買い物じゃないのか?」 「ううん。買い物。」 杏の思惑が分からなくて、狼狽えながら尋ねる石田を振り向きもせず。 杏はまっすぐ前を向いて、にこにこしている。 冬の空の闇は高く澄みきって、家々の灯りと、見え始めた商店街のイルミネーションとが、空を照らし。 「明日になったら、クリスマスのイルミネーションもおしまいだね。」 「あ、ああ。そうだな。」 今日はクリスマスで。 黒羽が来たことで、いつもとは違う雰囲気だったけど、やっぱり不動峰の連中と一緒にいるのは楽しくて。 素敵なクリスマス会で。 だけど、杏と二人っきりなのは、また別の楽しさがあって。 「ねぇ、石田さん。」 「ん?」 商店街に入る一筋前で、杏は唐突にくるりと振り返った。 半歩後ろを歩いていた石田は、びっくりして慌てて立ち止まる。 「どうした?」 商店街からは切れ切れにクリスマスソングが聞こえてくる。 まだ店じまいまで少し時間があるらしい。 買い物をするなら、コンビニじゃなくても、まだ間に合うかもしれない。 そんなことを思いながら、杏の後ろに見える商店街のちかちかする灯りに目を細めれば。 「石田さんってば!」 杏が不満げに見上げてくる。 「ねぇ。」 「ん?」 「……明日!黒羽さんにちゅーするの?」 杏の突然の質問に。 石田はうっかり荷物を取り落としそうになる。 「あ、あのな、杏ちゃん。あれは、なんていうか、勢いでさ……。」 しどろもどろに言い訳をすれば、杏は口元を押さえて。 「あはは!石田さんってば、そんな本気で言い訳しなくても!」 愉快そうに笑い出す。 そうか、杏ちゃんは黒羽さんと仲が良いから。あんな冗談のやりとりにも、慣れているのか。 からかわれたことよりも、杏が自分の言葉を誤解していなかったことに安堵して、石田はふぅっと肩の力を抜き。 「俺、黒羽さんとキスする気はないからさ。」 ようやく冗談めかして笑った。 「じゃあ。」 「ん?」 「私には?」 「……はい?」 頬に冷たい風が当たって。 石田は杏の目を凝視する。 遠いイルミネーション。住宅街には点々と街灯。 だけれども、世界は薄暗くて。 杏の表情はよく見えないのだけれども。 「石田さんってば。もう!」 少しむくれたような杏の声。 「杏ちゃん……。」 さすがに、ここまで来れば、石田だって、杏が何を望んでいるのか、分かるわけだが。 こんな場所で、どうして良いのか、分からなくて。 まだ、体中にクリスマス会の余韻が残っている。 気分は「不動峰テニス部の石田」であって、まだなかなか「杏の恋人の石田」にはなりきれなくて。 「ねぇ、石田さん?」 「ん?」 「……キスしてくれなかったら……ちゅーするよ?」 むくれたような、しかしどこか笑いを堪えているような杏のその言葉に。 石田は小さく吹きだした。 キスするのと、してもらうのと、どっちが幸せかなぁ、なんて。 少しだけ考えたけれども。 「杏ちゃん。」 「ん?」 「ケーキ、美味しかった。」 「うふふ。」 照れ隠しに、余計な台詞を吐きながら。 石田はかがみ込んで、そっと杏の唇に、触れた。 「帰ってこねぇな!杏!」 「……どこかで話し込んでいるんだろう。」 ソファから身を乗り出して時計ばかりを気にする黒羽に、桔平は苦笑する。世話好きなこの男は、人の妹を心配するときも全力だ。全く。 桔平の笑みに、黒羽は不満げに鼻を鳴らし。 「心配じゃねぇのかよ?」 とぼやく。 「俺が心配なのはお前だ。黒羽。」 「ん?」 「食い過ぎだろう。太るぞ。」 桔平の指摘に、黒羽はにやりと笑い。 「太るだなんて、レディに失礼なコト、言うんじゃねぇよ!」 そう言いながら、桔平の口の中に、最後の一個のポップコーンを投げ込んだ。 |