賭け。

 母親から受話器を受け取って、耳に当てるやいなや。
「冬休みはいつからだ?」
 もしもし、という間も惜しむように、橘が尋ねてくるので。
「冬休み?」
 ついうっかり、黒羽は笑ってしまう。
 十二月の声を聴けば、夜は本当に長くなって。
 ひんやりとした受話器の手触りさえも、冬を感じさせる。
 そんな中。
 いつものことだが、橘の電話は開口一番用件で。
 几帳面というか生真面目というか。
 相手に時間を取らせまいという心遣いなのだろうが、なんだか少し不器用な橘の口調が可笑しくて。
「何を笑っている?」
 電話の横に貼ってある中学の年間行事表に目をやりながら、黒羽は必死で笑いを押し殺す。
「笑っちゃいねぇよ。」

 今年の中学の終業式は12月25日。ちょうどクリスマスの日で。
 前の日が大掃除。

「そうか。それならうちと同じだな。……じゃあ25日は午後から……暇か?」
 とぎれとぎれに言葉を選ぶ橘に。
「どうした?またうちに来るか?」
 からかい半分、期待半分、誘いを掛けてみれば。
「いや……お前が来い。」
 予想外のリアクションに、黒羽は言葉を失う。
 泊まりに来いといったこの前の約束は、ただのリップサービスじゃなかったのか。
 思わず受話器をまじまじと見つめ。
「良いのかよ?受験生だろ。お前。」
 自分のことを棚に上げて黒羽は呟いた。

「忙しいならムリにとは言わない。クリスマスの予定もあるだろうし、黒羽も受験だろう?」
 気遣うような橘を、力強く黒羽が遮る。
「いや!六角のメンバーと遊ぶクリスマスは、たいがいイヴの夜だし!25日は、いつも通り、ダビあたりとまったり遊んでいるだけだろうからさ。どっちにしても、俺、勉強なんかしてねぇしよ。」
「そう爽やかに断言されると、むしろ誘って良いのか、不安になるな。」
 苦笑しながらも、どこか安堵の色を感じさせる橘の声音。
 壁にどさりと寄りかかって、黒羽はカレンダーを見上げた。
 12月25日まであと少し。

「天根は良いのか?寂しがらないのか?」
 一瞬の沈黙の後、橘がゆっくりと尋ねる。
 ひんやりと冷たい壁の気配に、冬が本格的にやってきたことを感じながら。

「ダビ?良いって。あいつは別に放っておいて平気。」
「しかし。」
「あんだよ?」
「黒羽は天根のコトばかり話しているからな。お前たちを離ればなれにするのは心苦しい。」
「……そんなに俺、ダビのコトばっか話してるか?」
「自覚がないのか?3分に一度は天根の名を呼んでいるぞ。」
「んなわけねぇよ!!」
 からかうような橘の言葉に、黒羽は突っかかる。
 自らの髪をぐしぐしと掻き上げて、軽く舌打ちをしながら。
 それに応えるように、橘は挑発的に言葉を紡いだ。

「じゃあ、賭けてみるか。これから10分以内に天根の名を3回呼んだら黒羽、お前の負けだ。」
「10分か?楽勝だっての。」
 居間の掛け時計に目をやれば、ただいまの時刻は8時35分。
 10分ぐらい、おしゃべりしていたら、あっという間だ。

「では、賭け成立だな。良いだろう。今から開始だ。」
「おう。ダビの名前、呼ばなきゃ良いんだろ。」
「……1回目。」
「おい!今のもありかよ!」
「当然。」

 橘が上機嫌に喉の奥で笑う。
 その余裕が悔しくて。
「で、良いのか?天根と一緒にいられなくても?」
 しかも、わざわざ天根の話題を振ってくる橘に、黒羽は頬をふくらます。
「その話題はやめようぜ。」

 それから。
 天根が出てこなさそうな話題を選んで。
 クラスメイトの話。期末試験の話。泊まりに行く日の話。
 時計を睨みながら。
 話題は脈絡もなく、どんどんころころと転がって。
 おしゃべりにのめり込んでゆく。
 そう、結局は、賭けなんか関係なくて。
 時間はあっという間に過ぎてゆく。

「宿題はどうなんだ?冬休み。」
「あー。そうだな。うちは三年にはあんまり出さないみたいだぜ。橘んとこは?」
「どうだろう。聞いていないが。まぁ、ひどい量は出ないと思う。」

 いざとなったら、一緒に宿題をやるのも良い。
 目的もなく遊びに行くのだから、ただのんびり一緒に過ごせれば良い。

「早めに終えた方が気楽だからな。宿題は。」
「全くな。ダビみたいに溜めるもんじゃねぇよな。」
「……チェック。」

 受話器の向こうで橘が笑ったのが分かった。
 あと一度で、黒羽の負け。確かに、チェック、王手だ。
 時計を見上げれば8時42分。
 7分で2回も天根の名を呼んでいる計算になる。
 一度目は少しずるい気もするが、二度目は完璧に無意識だった。しかも呼ばないように気を付けていて、この様だ。
 この調子でいけば、確かに3分に1度は天根の名を出しているのかもしれない。

 黒羽は大げさに肩をすくめ、溜息をついた。
「降参。俺の負け。」
「早いな。チェックメイトには、まだ一手あるんだぞ。」
 くすくすと笑いながら言葉を紡ぐ橘に、黒羽はもう一度溜息をついて。
「もう、良いっての。橘サン。」

 確かに可愛い後輩なんだよ。仲良いんだよ。ダビデは……。
 それはお前だって、よく分かってるんだろ?
 黒羽の言葉に、橘は小さな笑い声で応える。

「そっちでお前の大事な後輩たちに会うの、楽しみにしてるぜ。」
「ああ。」
 負け惜しみじゃなくて。
 橘があれだけ大切に想う後輩たちなら、会ってみたいのは本心で。
 冬の夜の深い闇の向こう。
 冷たい風が窓を叩いて過ぎてゆく。

「待ってるからな。」
 上機嫌に笑みを含んだ声でそう告げて、橘は静かに電話を切った。
 きゅっ。
 カレンダーの25日に、勢いよく赤いサインペンで丸を書いて、黒羽は窓の外に目をやる。
 見上げれば、雲間に小さく冬の月。


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