約束。

 ふぅっと。
 黒羽は盛大な溜息をついて、机に突っ伏した。
 そんな初秋の昼下がり。

「ああ。俺の可愛い橘は今ごろ一人で何をやっているんだろう。」
「慣れない千葉に独りぼっち。寂しくて泣いているかもしれない。ああ。可哀想な橘!くすくす。」
「…………サエ!!亮!!!!」

 柄にもなく溜息などつくものだから、友人達は面白がって。
 勝手に黒羽の台詞を考えていたりもしたのだが。
 両手で同時に繰り出した黒羽の裏拳を、二人揃って白刃取りして、にやりと笑ってみせる。
「そんなに橘が気になるなら、学校さぼれば良かったのに。」
「あのな〜。サエ。橘は真面目だから、そういうの嫌がるんだって。」
「ふぅん。」
 からかうにはからかうものの、やはり橘が一人で過ごしていることは、みんな気がかりで。
「今ごろ、何してるのかな。橘。」
「俺んちで勉強してるとか言ってたけどな。」
「そっか。彼も受験生だしね。くすくす。」

 そのころ、天根は何をしていたかと言うと、やっぱり机に突っ伏して。
「……橘さぁん……。」
 意味もなく名前を呼んでいた。

 結局、テニス部の面々皆が橘のコトを気にかけたまま、放課後を迎え。
 部活の様子をのぞきに、三年生達がグラウンドに顔を出すと、そこにはオジイに連れられた橘が姿を見せていた。
「……オジイ……。」
「いつの間に橘のこと、手なずけたのね……?」
 オジイは、テニスをやる子供が大好きである。
 そして、千葉に居る限り、オジイのテニスっ子センサーから逃れることはできないらしく。
 朝練から黒羽邸に帰る道すがら、橘はさっそくオジイに捕まった。

「……朝から学校さぼって……どこ行くの?(かくかく)」
「あ、あの。俺は。」
「……そんな悪い子はちゅーするよ……。(かくかく)」
 服の裾を掴まれて、橘は立ち往生し。
 オジイの元祖「ちゅー」攻撃に大いに狼狽えたのであるが。

 黒羽からオジイの話を聞かされていた橘は、その老人の姿を見てすぐに彼であることを悟り、事情を説明して事なきを得たらしい。
 そして、橘の腕やら肩やらをぺたぺたと触って、「良い子」であることを確認したオジイは何度もうなずき。
 夕方になったら、六角の部活に顔を出すように、と、かくかく招待したのだという。
「……あのときは、心底、良い子になろうと思ったぞ。さすがの俺も。」
 苦笑混じりにしみじみ呟いた橘に、黒羽はがしがしと頭を撫でて。
「キくだろ?あれは。」
 と笑った。

 いつもより短めに終了した部活の後、部室では和やかに佐伯の誕生会が開かれた。
 ささやかなお菓子とジュースと。
 なんてことはないプレゼントと。
 橘が黒羽邸で焼いたビターチョコのケーキ。
「ありがとう!橘!わざわざ、焼いてくれたんだ?!」
「おからが好きだと聞いたが、さすがに誕生日におからはどうかと思ってな。」
「あはは!!さすがに俺も、誕生会でおからが出てきたら、びっくりするよ!」

 ロウソクを15本。
 そして、賑やかなクラッカー。
 小さな火が揺れるケーキを見ながら、佐伯がにっこりと笑った。

「ねぇ、バネ。」
「あー?」
「せっかくだから、一緒にロウソク消そうよ。」
「おいおい。お前の誕生日ケーキだろうが!」
「俺とバネと二人のためだろ?ね?橘。」

 急に振り向いて水を向けられ、橘は面食らったようにしばらく瞬きを繰り返したが。
「……そうだな。黒羽の誕生日を祝ってやれなかったから、二人分かな。」
 少しだけ言いにくそうに、肯定した。

 そんなわけで。
 佐伯に肩を組まれた黒羽は、ムリヤリ、一緒に誕生日を祝われる羽目になり。
「一昨日、やっただろ!俺は!」
「橘が居なかったから、もう一回!」

 周囲に囃し立てられながら、ロウソクの火をふっと吹き消して。
「おめでとう!サエ!ついでにバネ!」
「おめでとう〜!!サエさん!ついでにバネさん!!」
 みなの暖かい声が響く。


 楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうもので。
 腕時計をちらりと見て、橘は静かに腰を上げる。
「黒羽。俺はそろそろ……。」
「ああ。明日学校だもんな。遅くまですまなかった。駅まで送る。」
「いや。道は分かるし。」
「良いって。」

 そばにいた木更津に軽く目配せして、黒羽は橘と共に席を外す。
 扉をそっと抜け出した瞬間。
「また来てね!!橘さん!」
「……またね……!」
「来てくれてありがと!橘!」
 後ろから、気さくな友人達の声が飛んでくる。
 慌てて振り返ると、皆が楽しそうに手を振ってくれていて。
「ああ。俺の方こそ、ありがとう。また、呼んでくれ。」
 橘の声に、一斉に全員が頷いた。

 夕方六時を過ぎた町は。
 すでにもう薄暗く、細い月が、赤みがかって空の端に懸かっていた。

「相変わらず、元気だな。みんな。」
 しみじみ呟いた橘の言葉に、黒羽は小さな笑い声で応えた。
 全くな。元気すぎだぜ。
 風はもう、秋そのもので、ひんやりと頬に冷たい。

「ああ。そうだ。」
 ふと、思いついたように橘がゆっくりと口を開く。
「今度は、うちに泊まりに来てくれ。黒羽。」
「へ?」
 一瞬、答えに詰まって。真面目な橘から遊び来いと誘われるなんて、思ってもみなかった。

「最近、俺が千葉にばっかり遊びに行っているものだから、後輩達が、俺に恋人でもできたんじゃないかと心配しているらしくてな。」
 おかしくて仕方がないと言った口調で、橘が含み笑いをする。
「へぇ。橘サン、千葉に彼女ができたって?」
 黒羽もくつくつと笑って。
「良いじゃねぇの。誤解させておけば。面白いだろ?」
 橘の肩を小突く。
「そうか。誤解させておくか。」
 人通りが多くなる。駅の灯りが、遠く浮かんで。

「で、こいつが俺の彼女だって、黒羽を紹介するわけか。」
「俺が彼女なのかよ?」
 橘とも思えない冗談に、黒羽は突っ込むより素で問い返してしまい。
「はは!真に受けるな。」
 珍しく橘が声を上げて笑った。

 切符売り場は人気も疎らで。
 これから東京に向かう人は少なくて。

「じゃあな。黒羽。楽しかった。」
「俺も楽しかったぜ。来てくれてありがとな。」

 握手を交わして、改札をくぐる背を見送れば。
 あっという間に人の流れに遮られて。
「絶対、遊びに行くからな!」
「ああ。待っている。」
 喧噪を越えてようやく交わした約束に軽く手を挙げて応え、橘は静かにホームへ消えていった。

 さりげない誘いのように見えて。
 もしかしたら、あの言葉は、橘なりの誕生日プレゼントだったのかもしれない。
「……俺ら受験生だっての。」
 呟きながら、黒羽は上機嫌に元来た道を歩き出した。


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