負けたこと自体には何の悔いもない。 精一杯やった試合なら。 負けても、本望だ。 ただ。 ただ。 あいつらの前では、笑って勝ってやりたかった。 さっきの試合ですりむいた傷を洗うだけ洗いたくて、しかし、後輩たちや妹の手を煩わせる気もしなくて。 俺はコート脇のベンチにあいつらを待たせ、一人で便所に向かった。 ついでに顔を洗って、さっぱりしよう。 そうしたら、きっと胸の中のもやもやも、なんとか消えるだろう、と。 ありがたいことに、俺の思考回路は振り返って悩むのが苦手らしく、杏に言わせれば、それはムダに前向きすぎるということらしいのだが、とにもかくにも、顔さえ洗えばなんか気分も晴れるだろう、と。 便所に差し掛かったとき。 建物の脇にある自販機の列の裏に、人の気配がすることに気付いた。 「あああ。だから。もう、泣くなよ。お前ら。」 聞こえてきたのは俺と同世代の少年の声。 それに被さるように。 「だって〜〜!なんで負けちゃったのさ!!勝つって約束したのに!!」 小さな子供の声がして。 「そうだよぉ。バネちゃん、勝つって……勝つって信じてたのに!!」 女の子の声もする。 バネちゃん??? 俺の脳内には、びよーんと伸びるスプリングが浮かんだが。 なんだかよく分からない。 ひょいと、自販機の裏を覗けば、そこにはベンチがあって。 赤いユニフォームを着たやつが、子供5人に囲まれて途方に暮れていた。 「悪かったって。もう負けねぇから!!ほら、泣きやめ!」 そいつはしがみ付いて泣いている女の子を抱き上げて。 「あのな〜。無敵のバネさんもたまには負けるの。そういう方がお話が面白いだろ??」 と、少女の鼻先をつついて笑った。 そして少年達をベンチに座らせると、順繰りに頭を撫でてやる。 うっかり、俺は笑ってしまった。 あのユニフォームは確か千葉代表の六角だったな。 六角の誰だか知らないが、あいつはなんで、子供の相手なんかしているんだ。 と。 そして。 なぜかふと。 俺はあいつらのことを思い出した。 「……バネちゃん。」 少女が俺に気が付いて、そいつのつんつんな髪を引っ張る。 「あん?」 振り向いたそいつの顔には、見覚えがあったが、名前までは思い出せない。しかし。 「あ!九州の橘じゃねぇの?」 そいつは俺の名前を知っていた。もっとも俺は九州の橘ではなくて、不動峰の橘なのだが。 そう、口にすべきかどうか、一瞬ためらっている間に。 「あ。悪ぃ。えっと。不動峰の橘だよな。」 「ああ。」 ご丁寧に、そいつは俺の思考をなぞって、きちんと訂正を入れた挙げ句。 「初めまして。俺、千葉の六角の黒羽。」 「ああ。初めまして。」 爽やかに握手を求めてきたりした。 「その子達は後輩、か??」 「ああ。こいつらは俺の弟とか、妹とかみたいなもん。まだ小学生だけどな。」 道理で小さいわけだ。 「バネちゃん!あたしは妹じゃない!!」 「あ?」 「妹じゃバネちゃんのお嫁さんになれないよ!」 「あー。そっか。じゃあ、従妹な。」 「……従妹だったらお嫁さんになれる?」 「なれる。なれる。」 腕の中の少女はなぜか、俺をライバル視するかのように、むぅっと睨み付けてきたが。 可愛いもんだ。 杏にもあんな小さい頃があった。 俺の嫁になるって言い張ってたっけ。 いつからそんなこと、言わなくなったんだっけな。 そのころは、杏も、俺が試合に負けると泣いていた。 杏が泣くから、俺は泣けなくて、慰めていて。 いや。杏が泣かなかったとしても、俺は泣けなかったかもしれない。 俺が泣けない分、杏が泣いてくれていたのかもしれない。 負けることは恥ずかしいことでも、哀しいことでもない、と。 相手がもっと強かったんだ、と。 慰めながら、本当に慰められていたのは俺自身だったのかもしれない。 「橘、お前、ここ、擦りむいてるぞ。」 少女を地面に下ろし、張り付いていた少年達を引き剥がして。 黒羽の手が俺の頬に伸びる。 「どうした?試合か??」 なんとも答えがたくて、俺は苦笑する。 さっきの試合を語れない俺がいる。 「舐めときゃ治る程度の傷だけどよ、自分の頬じゃ舐められねぇな。」 答えない俺に、何にもとがめ立てする様子もなく、黒羽は屈託なく笑い。 ポケットに手を突っ込んで、にやり、と呟いた。 「お。消毒薬発見。」 そして問答無用で俺の頬を消毒し始め。 周りでは子供達が「バネさん!四次元ポケット!!」とはしゃいでいる。 正直言って。 何が哀しくて、初対面の男にこんなに丁寧に消毒されて居るんだ、俺は。 と。 面食らわない訳じゃなかったが。 何か居心地が良くて。カラダが逆らえない。 「バネちゃんのお友達?」 「お友達ってか。今、初めてしゃべったんだけどな。」 「ふ〜ん。強いの?」 「強いさ。」 「バネちゃんより強い??」 「ああ。たぶん、強いよ。」 「バネちゃん、無敵だって言ってたのに!嘘つき!」 女の子がまた俺を睨み付けてくる。 俺が黒羽より強いかどうかは分からないが、とにもかくにも。 睨まれてるってことは、悪いのは俺なのか?? 「っていうか、まぁ、勝負はこれから、だよな。橘?」 「あ。ああ。」 にやっと笑ってみせる黒羽の表情は嫌味でも何でもなく。 テニスが好き好きでしょうがなくて、強くなりたいと願ってやまない、そんな男の目で。 俺が好きな目で。 黒羽はその目で、じっと俺の顔を凝視していて。 いや、それは傷を消毒して居るんだから、傷のある顔を見ているのは当たり前なんだが。 それがなんかやけに気恥ずかしくて。 「よっし。完了!!」 黒羽の手が俺の頬を離れたとき、俺は思わず大きく息を付いた。 「……何?橘、今、息止めてた??」 「いや。そんなことはない、と思うが。」 苦笑しようとして、自然に笑みがこぼれ。 ふと。 胸の支えが取れた気がした。 「手間、かけたな。」 「きれいな顔してるんだからさ。傷、残すなよ?もったいねぇ。」 「男の顔にきれいも汚いもあるか。」 「あるって!」 快活に笑うっていうのは、こういうことなんだろうな。 黒羽の周りに子供が集まる理由がよく分かる。 そのとき、ぱっと、男の子が目を上げて叫んだ。 「バネちゃん!ダビデが来たよ。」 見れば同じユニフォームの少年が、木立の向こうで手を振っている。 「……バネさ〜ん。……帰るって〜。」 その言葉に、子供達は彼の腕をてんでに引っ張って帰路に就こうとし。 「じゃあな、橘!」 「ああ。ありがとう。黒羽。」 黒羽はひらひらと手を振って、歩み去った。 負けたこと自体には何の悔いもない。 精一杯やった試合なら。 負けても、本望だ。 ただ。 ただ。 あいつらの前では、笑って勝ってやりたかった。 だけど。 そう思い詰めていた俺は。 いつの間にか、要らない荷物まで、背負い込んでいたのかもしれない。 急に体中の力が抜けた。 帰らなきゃな。 あいつらのところへ。 『橘さん!!』 待ち合わせたベンチに戻ると、力無く座り込んでいた全員が、一斉に跳ね起きた。 そうだ。 座り込んだって良い。 もう一度、立ち上がれるならそれで良い。 「俺たちは、まだ行ける。」 独り言は誰にも届かなくて。 そう。誰にも聞かせなくて良い。俺自身への独り言で。 あいつらには、言わなくても伝わっている。きっと。 見上げれば突き抜けるような空。 さぁ。 俺は何度でも立ち上がるから。 俺の背中目がけて、全力で追っかけて来い。 「行くぞ。みんな!」 『はい!!』 俺はあいつらに気付かれないように、口の中でくすりと笑った。 勝負はこれからだ。 そうなんだろ?黒羽。 |