伝えたい言葉

「日付が変わった瞬間に」などと言う発想は、そもそも橘にはなかった。あったとしても、携帯電話を持たない相手にそれをするには、相手の家族に迷惑をかける事になるので、実行する事はなかっただろう。
 朝起きて、学校に行って、引退したものの指導と称してちょくちょく覗きに行っているテニス部に二時間ばかり邪魔をして、帰宅。
 夕食をとり、ゆっくり休んでから風呂に入り――橘が電話をかけてみようと思ったのは、その時だった。
 しかし、なんとなく、照れくさい。
 そう思っている事実こそが何より照れくさいのだろうと思いつつ、橘は電話機を目の前に立ち尽くす事となった。
「お兄ちゃん、何してるの?」
「お兄ちゃん、邪魔」
 視線をカレンダーやら、時計やらの間で泳がせつつ、電話の前で三十分。その間、何度か杏に冷たい言葉を投げかけられたが、それは杏がふんぎりのつかない兄の背中を押しているのか、本当に邪魔だと思って言っているのか、橘には測りかねる。
 とりあえずこんなのは、俺らしくないな。まったく情けない。
 今日である事に意味があるのだと、橘はようやく意を決し、受話器に手を伸ばす事にした。
 瞬間、鳴り響く電話。
「……」
 三十分もかけてようやく固まった決意は、すべて水の泡。
 しかしそれはうじうじ悩んでいた橘のせいであって、電話の主のせいではない。
 橘は少々自責の念にかられつつ、受話器を取った。
「はい。橘です」
『おっ、橘か! ちょうどよかった!』
「……黒羽?」
 電話の向こうから届く明るい声は、間違いなく六角中の黒羽の声。
 今まさに、橘が電話をかけようとしていた相手の声だ。
「一体どうした? 何の用だ?」
『用がないと電話かけちゃいけねーのか?』
「いや、そう言うわけではないが……」
 今まで用がなければそうそう、電話をかけてこなかったではないか。
 それなのになぜ今日に限って。よりによって今日。
『なんてな。用ならあるぜ、ちゃんとな』
 言葉尻と交じり合うように届く笑い声。どうやら黒羽は相変わらず元気に楽しく、黒羽らしく、六角らしく、やっているようだ。
『お前、明後日学校休みなんだろ?』
「? どうして知っている?」
『都民の日だって聞いたからよ。ウチだって県民の日休みだからな。あ、千葉県民の日って六月十五日なんだぜ。羨ましいだろ?』
 何がだ? と質問を投げかけるべきだったのか、一瞬迷いつつ、
「……いや、特には」
 橘ははっきりと本心を述べてみた。
 都民の日の存在がない、あるいは存在はあっても休みにならないならばともかく、しっかりと十月一日に休みがあるわけなのだから、羨ましがる必要はないのではないか。
『なんだよ、羨ましがれよ。六月って祝祭日ねーだろ基本的に。でも千葉県民にはあるんだぜ?』
 ああ、そう言う事か。
 橘はなるほど、と納得しつつ、カレンダーに目をやって、「今年は日曜日だったのか、残念だな」と言ってやろうかどうしようか、少々悩んで止めてみた。
『あー、そんなことどうでもいいんだ、本題。明後日暇か?』
「特に用事はない」
『受験勉強しねぇのかよ?』
「では、その日は丸一日受験勉強にあてよう」
『あてんな』
「黒羽。お前は俺にどうして欲しいんだ」
 どうやらその問いで、黒羽は確信を突かれたらしく、ぐっと息を飲んで沈黙を呼び込んだ。
 質問を投げかけた張本人である手前、橘も話題を変える事が難しく、沈黙にしばらく付き合う事になる。
『あー、あのな、その日、サエの誕生日なんだ』
「……そうなのか?」
 橘は「お前とたった二日違いなのか」と言おうとタイミングを見計らっていたが、黒羽の声に阻まれてしまった。
『んでさ、いつも通りにバカ騒ぎすっから、お前も暇なら来いよって、誘いの電話、これ』
「ああ」
『なんなら前日から泊まりでもいいし』
「ああ」
『ああだけじゃ判んねえっての』
「……迷惑でないのなら、邪魔させてもらおう」
『迷惑なら最初っから誘わねーよ』
 電話の向こうで、黒羽が笑っているのを感じる。
 先ほどまでのような楽しそうな笑みではなく、嬉しそうな、幸せそうな笑みであろう。
『お前も来るって皆に伝えとくからな、絶対来いよ! じゃあな……』
「黒羽!」
 今にも電話が切られそうな勢いだったので、橘は大声で黒羽の名を呼び、引き止める。
『な、なんだよ』
 部活中や試合中でもなければ大声を滅多に出さない橘に驚いたのは、黒羽だけでなく橘本人もだ。
 何やら照れくさい事をしてしまったようだと心中で慌てつつ、なんとなく視線を感じて振り返ってみれば、テレビを見ていたはずの杏が、きょとんとしながら橘の背中を見つめていたので、いっそう照れくさくなった。
「あ、いや――大した事ではないんだが、いや、大切な事なんだが」
『なんだよ。どっちだよ。お前らしくもねえ慌て方だな』
 指摘されなくとも、そんな事は自覚していた。
 ああ、確かに、今日の自分はらしくない。
 橘は自分を取り戻そうと、目を伏せ、大きく深呼吸をする。
 そうしてようやく、黒羽に今日伝えなければと思っていた言葉を、口にする事ができた。
「誕生日……おめでとう」


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