日に日に夜のはじまりが少しずつ早まり、夏ももう終わりだと思わせる。 空はもうすでに暗く、それでも道を見失う事の無い明るさは、「ああ、東京に帰ってきたのだな」と橘に思い知らせる。 自宅の玄関の前にひとり立ち、目を伏せて深呼吸してから、橘はドアを開けた。 「ただいま」 帰宅の挨拶を口にしたが、反応は無い。 誰も居ないのか、聞こえていないのか。誰も居ないのだとすれば、玄関の鍵が開いていたのは、ずいぶんと無用心だ。 橘はいぶかしみながらも、靴を脱いで自宅に上がる。 それと同時に、リビングに繋がるドアが開く。 「あ、お兄ちゃん! おかえりー!」 ひんやりとした風が、ドアの向こうから押し寄せて、橘の頬を撫でた。 どこか無機質を思わせる、エアコンに冷やされた風は、生暖かい空気をかき回すだけの扇風機を愛用していた男を思い出させる。 「夏は暑くなきゃ意味ねえだろ!」と力説していた、暑がりの黒羽は、今頃蝉の声や風鈴の音をBGMに、扇風機にあたりながら、アイスクリームでも食べているのだろう。 「少し寒くないか」 「そう? いつもこんなもんでしょ?」 「……そうだったか?」 リビングに入り、荷物を置いて、エアコンの設定温度を見る。確かに、いつも通りの二十七度。けして寒いわけではない。 どうやら、たった二泊三日の小旅行で経験した生活は、しっかりと体に染み付いてしまったらしい。 橘はどうしようもなく、ひとり苦笑した。 「昨日作ったカレー、まだ残ってるんだけど食べる?」 「貰おう」 「でも、おかわりするほどは残ってないよ?」 「構わない。昼飯が少し遅かったからな、それほど空腹でもない」 「そ」 台所に姿を消した杏は一分ほどして、カレーを盛った皿と、スプーンと、氷入りの烏龍茶が乗ったお盆を持って現れた。 乾いた喉を潤すために、まず烏龍茶に口を付ける。 慣れない味だと感じるのは何故だろう。いつも家ではミネラルウォーターか烏龍茶を飲んでいたはずなのに。 黒羽家の冷蔵庫には、冷たい飲み物が麦茶しかなかったからだろうか。 「よっぽど楽しかったんだね」 スプーンを手にとると同時に、正面に座った杏が言う。 「え?」 「お兄ちゃん、顔、すっごい緩んでるよ。気持ち悪いくらいにね」 「……そうか」 些細な事から蘇る、千葉で作った些細な思い出たち。それらが、橘を自覚無く微笑ませる。 笑顔を消そうと口元を撫で、表情を引き締めると、橘はカレーに口を付ける。 楽しかった。 その事だけは間違いない。 「あ、そうそう、でね」 杏はテーブルの隅に置かれたメモ帳の一番上を剥がした。 何か橘への伝言でも書かれているのかと思い、橘は左手を伸ばしたが、それが橘に手渡される事は無い。杏は橘を弄ぶように、そのメモをちらつかせるだけだ。 「同点第五位、内村くんと深司くん。今日の午後、一回。ふたりともクールぶってるから、結構我慢したんだろうね」 「は?」 「同点第三位、石田さんと森くん。二回。石田さんはお昼頃と夕方一回ずつ、森くんは午前と午後一回ずつ。ふたりっぽい、常識的な回数かな」 「……何の話だ?」 「第二位、桜井くん。三回。昨日の夜一回、今日のお昼頃一回、夕方一回。凄い気合入れてたのにから回っちゃって、ちょっとかわいそうだった」 「だからな」 「堂々第一位は、じゃーん、アキラくんでした! なんとね、六回もよ! 昨日の夕方と夜で一回ずつ、今日は午前中に一回、お昼頃一回、三時ごろ一回、夕方ごろ一回、だったかな。こっちからかけなおすって言ったのに、ちょっとしつこいくらいで、困っちゃった」 すべてを読み上げて満足したのだろう、杏はテーブルの上をすべらせるように、カレー皿のそばにメモを運ぶ。橘の視線が充分すぎるほどに届く位置に。 並べられた六人の後輩たちの名前と、その横に記される「正」の文字。もっとも、文字として完成していたのは、「アキラくん」と書かれたすぐ隣にあるものだけだったが。 「お兄ちゃんあてにかかってきた電話の回数だよ」 橘はスプーンを置いて、メモを手にとった。 「みんな、お兄ちゃんが帰ってくるの、待ってたよ」 たった二泊三日、離れていたただけだと言うのに。 しかも、一泊二日ははじめから宣言しており、それが一日伸びただけだ。 ついこの間全国大会が終わるまで、夏休みだと言うのに毎日顔を合わせて、千葉に旅立つ一日前には、神尾の誕生日で集まった。 それなのに。 「みんなみんな、お兄ちゃんを待ってたの」 橘は、手の中のメモを、そっとテーブルの上に戻す。 スプーンを再び手にとって、まだ半分残っているカレーに口をつける。 「カレーを食べ終えたら、あいつらに電話しよう」 「うん」 「土産も買ってきた。明日、あいつらに渡そう」 「うん」 杏は微笑む。 兄の意見に同意の意味を込めて、ではない。兄はおそらくそう思い込んでいるのだろうが。 兄の食の進みが急に早まった事がおかしくて、でも本気で笑ったら、兄が不機嫌になるかもしれないから。 だから、笑いを必死にこらえるために、微笑んでいるのだ。 |