台所の惨事を片付けるのは一苦労だった。 壁や天井には卵白だけでなく生クリームなども飛び散っていたし、床は舞い散った粉砂糖やこぼれたチョコレートでベタベタになっている。黒羽がチョコレートで焦げ付かせた鍋もかなりの難敵であったし、調理道具や皿が無駄に使われたため、洗いものも多い。 ケーキ作りをはじめる前の状態に戻すために、相当の時間を費やす事となったが、なんとなく満たされた気持ちの三人にはそれほど辛い作業でもなかった。 「ようやく終わったか」 綺麗に洗った雑巾を慣れた手つきで絞った橘は、満足そうに微笑む。 しかし、麦茶でも飲みながら一休みしようかと台所を出た瞬間、脱力感に襲われた。 「すっかり忘れていたな……」 ケーキを乗せていた大皿と、切り分ける時に使った小皿三枚、ナイフ、三本のフォーク。各人の好みでアイスティーかアイスコーヒーかの違いはあれど、飲み物を入れるために使ったコップ。 台所を掃除した事に比べれば、それらを洗う事など、大した苦労ではないのだが――すべて片付いたと確信したあとに見せつけられると、少々心理的負担が大きかった。 「こんくらい、俺とダビで片付けっから、お前は休んでろよ」 「しかし……」 「これはお前の誕生日祝いだったんだからな、お前にやらせるのもヘンだろ。な、ダビ?」 「うぃ」 頷く天根を引き連れ、重ねた食器たちを抱えて、黒羽は再び台所に消えていく。 食器洗いならばあのふたりでも、問題はなかろう。 「ではお言葉に甘えて、休ませてもらうとしよう」 そよ風が吹き抜ける居間でひとり、風鈴の音に耳を傾けながら、橘はゆっくりと腰を降ろした。 黒羽と天根が交わす言葉が、水の音が、ずいぶん遠くに感じる。 「さあってと、これから泳ぎにで……」 食器の片付けも終わり、台所から橘に声をかけようとした黒羽の口を、突然天根の左手が塞ぐ。 「何すんだよ」とふさがれたまま苦情を言う間もなく、口元に立てた人差し指を当てた天根が、黒羽に目配せをした。静かにしろ、と言う事らしい。 天根の肩越しに、黒羽は居間を覗く。 そこに見えるのは、自らの腕を枕にテーブルにもたれる、橘の姿だ。 「寝てるのか?」 「多分」 ふたりはできるかぎり足音を殺し、橘に近付いてみた。 伏せられた両目は開く様子はない。 起きている人物よりもゆっくりとした呼吸は規則正しく、誰でもそんなものなのだが、なんとなく橘らしいと思わせた。 「どうする?」 声を極限まで殺した天根が、黒羽に訊ねる。 「起こすか?」 同じだけ声を殺して、黒羽は天根に訊ね返す。 すると天根は間髪入れず、首を左右に振って拒否したかと思うと、そっと居間を立ち去った。 何する気だと疑問を抱きつつ、黒羽はとりあえず、橘の正面に座る。 満たされた胃と、暑すぎると言うほどではない今日の気候は、確かに昼寝に相応しいかもしれないが、それにしてもずいぶん短時間で眠ってくれたものだ、と少々感心する。寝付きが良いのは夜だけではないらしい。 なんとなく新鮮な気分になった事がおかしくて、黒羽は小さく微笑んだ。 この男の寝顔ならば、彼が黒羽家に来てから二晩連続見せてもらったが、それと今この男が見せているものは、少し違うもののような気がするのだ。 「悪かったな」 黒羽と天根にケーキ作りを教える事も、後片付けも、橘に多大な疲労を与えたに違いない。 はじめから橘ひとりでやっていれば、あれほどの時間は費やさなかった上に片付けもずいぶん楽だったはずで、自分たちにやらせた事を、橘は深く後悔していたのではなかろうか。 「でも」 だからって。 「ずいぶんくつろいでくれてるよな、お前」 黒羽は橘に触れようと手を伸ばしたが、すぐにためらい、テーブルの上で軽く拳を握った。 なんとなく。そう、なんとなくだ。 橘桔平と言う男は、いくら疲れているからと言っても、人前で無防備に寝顔をさらすような男ではないと黒羽は思っていた。まして他人の家の居間でうたたねなど、もっての他だろう。 ならばこれは、橘本人すら知らないところで、とても不器用な形で示された、最上級の信頼かもしれない。 そう思うと、黒羽の微笑みは少しだけ柔らかさを増した。 「……?」 自分たち以外の気配を感じて、黒羽は顔を上げる。 勝手に黒羽の部屋に行っていたのだろう、一番薄手のタオルケットを持って現れた天根は、そっと橘の肩からタオルケットをかけると、黒羽と橘の間の席に座り込む。 「橘さんが起きたら、海行こう」 「橘をおいてふたりで行こう」とは、天根は言わない。つい二日前までは、当たり前の事だったのに。 よくもまあここまで、天根を手懐けたものだ。 「だな」 せっかくの休みがもったいなくて、ついつい色んな事に手を出したくなるけれど、たまにはこうして、ただのんびりしているのも、悪くないかもしれない。 橘が目覚めるまでのほんのひとときを、休み時間にしようか。 黒羽はひとつ伸びをすると、その勢いを借りて、畳の上に静かに倒れ込んだ。 |