少々渋めに出した緑茶が、吸い込まれるように湯飲みに注がれていく。 「こんなに熱いのに、なんでわざわざ熱いお茶、飲むんだよ」 扇風機の前を独り占めし、正面から襲いくる風に声を歪ませながら天根が問うた。 「煎餅には熱い日本茶って決まってんだよ」 バリッ、と大きな音。歯ごたえのある煎餅が、みるみるうちに黒羽の口の中に消えていく。 煎餅に熱い日本茶と言う考え方に、橘は大いに賛同だった。だが、ならばこんな熱い真夏の昼日中に煎餅なんて食べなければ良いのではないか、とも思ってしまう。 千葉県生まれで千葉県育ちのこの男は、どこか江戸っ子くさい。 東京に住みはじめてようやく一年になろうとする橘には、正しい江戸っ子がどんなものかあまり判っていないのだが。 「天根、冷たい麦茶を飲むか?」 「うぃ」 油の切れた機械のようにゆっくり肯く天根のコップに、橘は麦茶を注ぐ。冷凍庫から取ってきた氷をみっつ入れてやるのも忘れない。 黒羽家にきて三日、橘は冷蔵庫、いや、台所に関しては、黒羽家の息子よりも詳しいだろうとの自信がついていた――そんな自信が欲しいと思った事は、一度もないのだが。 「お前、茶を入れるのも上手いんだな」 「そうか?」 「男なのがほんとに惜しいよな」 何と返していいか判らずに、橘が口を噤んでいると、 「でもま、お前が女でそこに居たとしても、『女なのが惜しいな』って言ってんだろうな、俺」 ある意味でもっとも的確と言える答えを、黒羽本人が口にしたので、橘は沈黙を保つ事にした。 蝉の声、風鈴の音、茶をすする音と煎餅をかじる音、そして氷がガラスと触れ合う音。 そんなのどかな空気の中、天根は突然何かを思い出したように、そそくさと橘の前に移動する。そして畳の上に正座して、上目使いで橘を見上げながら言った。 「橘さん、ケーキ作れる?」 絶句した。 天根や黒羽に比べれば細身で小柄かもしれないが、一般中学生男子として考えれば、いや、成人男子の中に入っても、橘は大柄と言っていい。 天根は橘が肯定するのを待っているような、期待に満ちた瞳で橘を見つめているが――そんな橘がケーキを作っているところを想像して、天根は何か感じなかったのだろうか。 橘は思う。 自分みたいな男がケーキを作っているのは、不気味だと。 「ま、まあ……杏の手伝いで一緒に作った事はあるが……」 「アン?」 「妹だ」 「妹、居るんだ」 「ああ」 答えて、妹と目の前の少年が同い年である事を思い出し、橘の心中は相当複雑だった。色々な意味で。 その気持ちをごまかすために、橘は話を元に戻す。 「ケーキの事だが、レシピを見れば作れない事もないと思うぞ」 「本当に!?」 立ち上がった天根が、天根の勢いに怯む橘の手をぎゅっと握る。 先ほどよりもいっそう輝いた瞳。 天根が橘にケーキを作らせようとしている事は間違いないだろう。 「明後日、樹っちゃんの誕生日」 「いっちゃん……?」 「お祝いのケーキ、作って」 ほんの一瞬、眩暈がした。 そんな大切なケーキを、ケーキ作り初心者に作らせていいものか。 そしてなにより、その「樹っちゃん」なる人物の誕生日が明後日と言う事は、明後日までここに居ろ、と言う事になる。 「あのなあ、俺は本来なら、昨日までに帰っているはずだったんだ。今ここに居るだけでもおかしいのに、明後日まで邪魔するのは、さすがに迷惑だろう」 「そうでもねーよ。親父もおふくろも、帰ってくる気ねえみたいだからな」 ボリッと、いっそう強い煎餅をかじる音をたてながら、黒羽は言った。 「黒羽……」 黒羽の両親は、息子をなんだと思っているのだろう、と少々不安になる。 放任しているわけでも見捨てているわけでもなく、息子を信頼しているのだろうとは思うのだが……確かにこの男ならば、無人島にひとり放り出しても一月くらい平気な顔で生活していそうだと橘も思うのだが。 「近所のケーキ屋で買うわけにはいかんのか?」 「いつもはそうだけどな」 「でも、手作りできるなら、そのほうがいい」 それは、その「樹っちゃん」に近い人物がケーキを作れる場合に言うべき台詞ではなかろうか。 橘の脳裏に蘇る、六角中メンバーの誰かが「樹っちゃん」であろうとは思うのだが、どの人物が「樹っちゃん」であるか、橘には自信が無い。そんな人間に誕生祝いのケーキを作られて、はたして「樹っちゃん」は喜ぶだろうか。 「……ああ、そうだ」 「ん?」 「お前たちが作ってみたらどうだ。ケーキ」 『は?』 黒羽と天根はふたり揃って、「お前何アホな事言ってんだ?」とでも言いたげな冷たい視線で、橘を睨む。 まあ確かに、ふたりとも家庭科の授業以外で調理をした事など、無さそうだが。 まして可愛らしいケーキ作りをしている様子など、想像するだに寒いのだが。天根にいたってはエプロン姿を想像するだけで妙な切なさを感じるが。 それでも、その方が「樹っちゃん」は喜ぶ。必ず。 「どうせ手作りをするなら、想いがこもっていた方が良いだろう? 本番が明後日なら、練習期間もあるわけだしな。もちろん俺も手伝うぞ」 橘がふたりの肩に手を置くと、ふたりは困ったように見つめ合う。 「どうする? バネさん」 「あー……まあ、一理あるよな」 「誕生日は手作りケーキで景気よく……ぷっ」 いつもの天根のつまらない駄洒落と、黒羽の激しすぎるツッコミ。 拒否の言葉も態度も、どこにもない。 不安と照れくささの奥に隠された友人への愛情が微笑ましくて、橘は無意識に笑っていた。 「……焦げ臭いぞ。何してるんだ、黒羽」 「あ? 見てわかんだろ? チョコ溶かしてんだよ」 「イチゴショートを作ると聞いたが……どこに使うんだ、そのチョコレートは」 「なんか仕上げに。『樹っちゃん誕生日おめでとう』とか入れるだろ、やっぱ」 「今溶かしても仕上げの頃にはまた固まっているだろう! いやそれより、チョコレートを解かすときは直火にかけては駄目なんだ!」 「そうなのか。へ〜。お前ってやっぱすげーのな」 いや、凄い凄くないの問題では無いだろう。 すっかり薄気味悪い物体に変化したチョコレートを眺めながら、一体どうしたものかと橘は頭を抱える。 そんな橘の袖を引くのは、天根だ。 「橘さん橘さん」 「どうした?」 「卵、泡立ててたら、なんか無くなった」 「無くなるか!」 「無くなるって言うか、飛び散った?」 見回せば、天井に、壁に、天根の顔に、メレンゲになる前の卵白が飛び散っている。 どんな力技を使えばこうなるのか。 パワー自慢の天根にやらせたのが悪かったのだろうかか? いや、同じパワー型プレイヤーでも、石田ならばこんな惨劇を生む事はあるまい。パワーのせいではなく、パワーを使う人間のせいなのだ。 「まさか、ここまでひどいとはな……」 明後日には、まともなケーキが完成するのだろうか。 それはおそらく、神のみが知っている。 |