空気はゆっくりと温もりを増し、優しい色合いの花たちは蕾を膨らませていた。 何もかもが、もうすぐやって来るだろう春の訪れを示している。 心なしかいつも見るものよりも色鮮やかに思える空を見上げ、桔平は自覚ないままに口元に笑みを浮かべる。都会の喧騒とも狭苦しさとも縁遠い地に立ち見上げる青空は、開放感を桔平に与えた。 その開放感は、志望校の合格発表を見た時に感じたものに近いかもしれない。ドラマで見かけるように足しげく塾に通ったり、寝る間も惜しんで勉強したりと言った事とは縁遠かった桔平でも、すべてが終わった時には強い開放感が胸を占めたものだ。 「思ってたよりは、だいぶマシだなぁ」 改札口を出て、きょろきょろと周りを見回した神尾が、桔平の背後で呟いた。明らかに独り言以外のなにものでも無かったが、 「何がだ?」 気になった桔平は、思わず訊ねてしまう。 桔平に聞かれているとは思わなかったのだろう。神尾は慌てて、胸の前で大きく手を振った。 「いや、べ、別に田舎差別する気はないですよ! でも、黒羽さんが『ホント、海とテニスコート以外、何にもねえから!』って言ってたから、本当に何にもないんだろうと思ってて……!」 弁解する神尾の緊張をほぐすために、軽く神尾の頭に手を置いてから、桔平は微笑んだ。 駅前には大型スーパーや有名チェーンの飲食店がいくつか並んでいる。都会的とはお世辞にも言えないが、黒羽の説明から受ける印象に比べると、遥かに栄えていると言って良い。 「『喜べ』と言うべきか『残念だが』と言うべきかわからんが、六角中があるのはここよりもずっと奥地だぞ。バスで数十分かかるからな」 「へ!?」 「本当に海とテニスコートしかないから、覚悟しておけ」 清々しく笑う桔平に圧倒されたのか、神尾は数秒間、間抜けに口を開きっぱなしにしていた。 それから仲間たちに振り返り、互いに顔を見合わせて、視線で何かを語り合う。 「お前ら何してる、早く来い。バスに乗り遅れたら大変だぞ」 『は、はい!』 桔平は後輩たちを先導するために、力強く歩きはじめる。 歩き慣れた道と言えるほどではない。だが、鮮明に蘇る夏や秋の記憶と何ら変わりのない道を歩むに惑う事はなかった。 自分たちが降りる事で乗客を二名にまで減らしたバスを見送る。道は永遠を錯覚するほど真っ直ぐ長く伸びていて、バスが視界から消えるまでに、相当の時間を必要とした。 黒羽と待ち合わせしたのはこのバス停だったのだが、未だ桔平たちが見知った人物の姿は無く、桔平は荷物を足元に置いて振り返った。 目の前には砂浜と海が広がっている。ちらほらと見受けられる人の影は、さっそく潮干狩りにでも精を出しているのだろうか。 「へー。綺麗だねー」 感想を率直に口に出したのは森だけだったが、それぞれが同じ感想を抱いている事くらい、桔平は理解できた。特に神尾は、明らかにリズムに乗っている。 「泳げないのが残念だなぁ」 「橘さんは、去年、夏に来たんですよね? いいなあ」 「夏は夏でも終わり近かったからな。泳ぎはしなかったぞ」 水面に反射する光が眩しく、桔平は目を細めた。 「泳ぎたければ、また夏に来ればいい」 「そうですね!」 「ただし、泳げる時期に来るためには関東大会あたりで敗退する必要がありそうだが」 言葉を失ったのは全員。春休みが終われば、中学最後の夏に向けての猛特訓をはじめる少年たち。 「……じゃあ、いいです。泳げなくて」 ふてくされたように答える様子がたまらなくおかしくて、桔平は低い声を漏らして笑ってしまった。 去年の夏を思い出す。 あの時の黒羽の言動のすべてが優しく、「お前はひとりで無茶しすぎなんだよ」と訴えていた。それは至極もっともな意見で、従うべきだと桔平も思った。黒羽への感謝の念は尽きない。 だがやはり、こんなにも愛しいものならば、すべて背負って朽ち果てても幸福なのではないか、と言う気持ちは変えられそうもない。 だから。 と言うにはあまりにも難があるが、会いたい気持ちが募るばかりなのだから、仕方がない。 「黒羽さん、まだですかね」 不安そうに桔平を見下ろす石田に応え、桔平は時計に視線を落とした。 「約束の時間まであと数分ある。それまでには来るさ。全速力で自転車を漕いでな」 「自転車……ですか?」 「ああ。半端でなく速いぞ。神尾、勝負してみたらどうだ。おそらく桃城より手強いぞ」 「はい! 絶対負けませんよ!」 気合を入れる神尾に、「がんばれ」と小さく応援の言葉を投げかけてから、桔平は、黒羽の家に繋がる道の先を眺めた。 電話で幾度も声を聞いた。今月の中頃には謎の贈りものも届いた。けれど直に会うのは二ヶ月半ぶりだ。生活の場の離れ具合を考えれば、二ヶ月半ぶりなんてあって当然の間隔なのかも知れないが。 「ああ……来たようだな」 やがて道の向こうには、自転車を漕ぐ小さな影がひとつ。 桔平は荷物を再び担ぎ上げると、影に向かって歩き出した。 一歩分でも早く、彼と再会するために。 |