ブルースカイの向こう側

 新学期早々の集会での、校長の長話。
 それが終わったかと思えば、今度はホームルームでの担任の長話。
 ただでさえ拷問に近いそれらが、今日は余計に辛く感じたのは、いつも以上の楽しみが放課後に待っているからだ。
 開放された喜びの勢いを借りた不動峰中男子テニス部二年一同は、周囲の制止も教師の注意も振り切って、廊下とグラウンドを駆け抜ける。
 全員が息を切らして部室に飛び込み――だから、桔平がホームルームを終えてすぐ、久方ぶりにテニス部の部室を訪れた時には、すでに六人全員揃っていた。
 部活に来たと言うのに着替えもしていない。制服姿のまま床に腰を降ろし、眉間に皺を寄せて、六枚の年賀状を囲み、うんうんうなっている。
 桔平が現れた事に気付きもしない、そんな六人の様子が微笑ましくて、桔平は部室のドアを開けたまま入口に立ち尽くしていたものだから、
「あれ? みんな、もう揃ってるの?」
 少し遅れて訪れた杏が、躊躇もせずに部室の中を覗いた。
「あ……橘さん!」
「杏ちゃん!」
 突然の来訪者に少々慌て出す六人。
 桔平と杏は顔を見合わせてくすりと笑ってから、六人が作り出した輪に近付く。
 それから各々が、荷物の中から己あての年賀状を取り出して、散りばめられた年賀状の中に加えた。
「パーツが揃っていない状態で組み立てようとするとは、随分気が早いな」
「もう。私たちを仲間はずれにしないでよね」
 年賀状が突然二枚増えた事に、六人は目を見張る。
「ああ、どうりで!」
「六枚じゃ何の言葉にもならないから、おかしいと思ったんですよ」
「八枚あればなんとかなりそうですね!」
 少年たちの眉間から、みるみる皺が消えていき、黒羽が残した八文字に、全員の柔らかい視線がそそがれる。
 たった八文字のメッセージに込められたもの。とても簡素で、当たり前の言葉で、彼が自分たちに伝えたいもの。
 それを微笑みながら考えこむ後輩たちや妹が、たまらなく愛しいと桔平は思う。
「うーん、なんだろ」
「黒羽さん、順番も書いておいてくれればいいのにな」
「……判らないのか?」
 八枚揃ってしまえば、簡単に答えが出るだろうと思っていた桔平は、少々戸惑った。
「橘さん、答え知ってるんですよね?」
「ああ」
「絶対言わないでくださいね! 俺たち自分で考えますから!」
「判った判った」
 桔平に聞いてしまえば楽なのに、けしてそうしようとしないのは、もちろん意地もあるだろう。しかし一番の理由は、黒羽の想いを真正面から受け取りたいと言う、素直な愛情からに違いなかった。
 今夜あたり、黒羽に電話をしてやろう。この事を報告すれば、あの男はきっと全力で喜ぶ。
 桔平は、容易に想像がつく黒羽の表情を思い浮かべながら、ベンチに腰を降ろした。少し離れて後輩たちを見守るために。
「……判った」
 全員が黙り込んで、考え込むようになってから、最初に口を開いたのは、神尾だった。
 空気が張り詰める。「まさか神尾に先を越されるなんて」とでも言いたげに、神尾と桔平を覗く六人の表情が、大なり小なり、驚きや不愉快を表情に出す。
 神尾は得意満面な顔で、八枚の年賀状を、手早く並び替えた。
「これだ!『くしろもとしこよ』だ!」
 再び、沈黙。
「神尾って、期待を裏切らない馬鹿だよな……『くしろもとしこよ』って何さ」
 あまりに自信満々な神尾の態度に、途方に暮れかけた桔平は、伊武の辛辣な声にほっと胸を撫で下ろした。
「くしろって北海道の釧路だろ? としこって人名だろ? なら、『釧路もとしこよ』っておかしいだろ? 釧路がとしこなわけないんだからさ。正しくは『としこも釧路よ』だよ」
 いや。
 それも違う。
 と桔平が口を挟む余地はなかった。
「それ、どう言う意味だよ」
「だから『としこも釧路に住んでいるよ』って事だろ」
「としこもって事は、他に誰が住んでるのさ」
「さあ、そんなの俺が知るわけないだろ」
「って言うかそもそもとしこって誰? 黒羽さんの恋人?」
「違う! 違うわよ! 黒羽さんはそんな人じゃないんだから! ねえ、お兄ちゃん!」
「……ああ。そうだな」
 少なくとも桔平は、黒羽に『としこ』と言う名の恋人が居るとは聞いていないし、千葉と釧路で遠距離恋愛しているとも考えられなかったので、素直に頷いておく事にした。
「えー、じゃあ、誰なんだろう、としこって」
 なぜ謎の人物『としこ』から離れられないんだと、桔平は聞かなかった。
 ただ、静かに微笑んで、それからゆっくりと首を動かし、窓から外を覗く。
 黒羽。
 お前の気持ちは、もしかしたら伝わらないかもしれん。
 どこまでも続く空の向こうで、今日も力一杯生きているだろう親友に向けて、桔平は胸の中で語りかけた。


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