石田が時計を正しい時間になおしてから、天根は一度たりとも時計に目をやろうとはしなかった。 話す事(むしろ、駄洒落を言う事)に夢中になっていて、時間を気にする余裕がなかったのももちろんだが、一番の理由は、現時刻を知りたくないからだ。 橘家を訪ねるのを心底楽しみにしていて、約束した時間より三十分も早く黒羽家にやってきた天根は、黒羽が母から「明日は何時頃帰ってくるの?」と聞かれ、 「多分七時ごろには帰るんじゃねえか?」 と返したのを聞いていた。 七時ごろに帰着するために、何時にここを離れなければならないのか。 そのくらいの事は天根だって逆算すればすぐに判る。 まして東京都内を走る電車とは違い、自分たちが最後に乗る電車は一時間に三本あればいいような電車なのだから、おのずと帰る時間が限定されてしまうのだ。 「……そんじゃ」 石田たちが入れてくれたお茶をぐびっ、と飲み干してから、黒羽は天根と目を合わせた。 「そろそろ、本当に時間だな」 いつもより少し落ち着いた声で、黒羽が無常な現実を告げると、部屋の中がしんと静まり返る。 寂しい気持ちはみんな同じ。もっと一緒にいたいと言う願望も、きっとみんな持っている。 けれどそれは無茶な願いなのだと言う事が判る程度には、もうみんな大人なのだ。別れ別れになってから、再びやってくる日常が、愛しいものだとも知っている。 「ほら、行くぞ、ダビ。まず橘んち戻って、荷物取ってこねえと」 「……うぃ」 「うぃってな、お前、だったらテーブルにしがみついてんじゃねえよ!」 椅子にどっしりと腰を降ろし、テーブルにしっかりと掴まる天根を、黒羽は力ずくで引き剥がす。 「さすがのバネさんも、もう時間は巻き戻せねえからな」 とどめのように、ため息まじりに黒羽が呟くと、天根はとうとう観念し、自分の足で立ち上がった。 しょぼくれで丸まった天根の背中を、黒羽が力一杯叩くと、俯きがちだった顔を上げる。 神尾と森は、判りやすいくらい寂しそうな顔をしていた。 内村は、「へっ! どこにでも行っちまえ!」とでも言いたげな態度と表情だったが、それが逆に彼の気持ちをあらわにしていた。 石田と伊武と桜井は、感情が表に出ていなかったが、何と言っていいか戸惑っている様子から見て取れた。 「お前ら、昨日と今日と、ホント、ありがとな。楽しかったよ。それにカレーも美味かった!」 『黒羽さん……』 黒羽が力一杯笑いながらそう言えば、六人は声を合わせて黒羽の名を呼ぶ。別れを惜しんで寂しそうにだったり、黒羽の心遣いに嬉しそうにだったり、声音はそれぞれ違っていたが。 そんな光景を横目に、「プリンが不味かったとでも言うつもりかな、黒羽さん」などと杏が笑顔で呟き、桔平が「おいおい」と呟きながら苦笑していた。杏も本気でそうは思っていないのだろうが、やはり少々不服なのだろう。黒羽からもらったピヨちゃんを指ではじく事で、ちょっとした仕返しをしている。 「石田」 「ん?」 「てぶくろ……」 天根はそこまで言ってから、 「を、逆さから言って」 言う事を急遽変更してみた。 六角中のメンバーでは、こんなネタに引っかかったのは樹くらいなものだったが(しかも佐伯からのきつい報復があった)、石田ならもしかしたらと言う期待に、天根の胸は膨らむ。 「なんでだ?」 「なんでも」 「……えーっと、ろく」 「こら! そんな古典的なネタに引っかかる奴がいるか!」 「? ネタ?」 石田は、桜井に危機(?)を救われた事に気付かず、わけが判らないとばかりに首を傾げた。 「桜井……」 「ネタはもういいからな」 「……うぃ」 事前にネタを封じられて、天根は少し落ち込んだが、『とりあえず石田はひっかかるのだ』と言う確証を得た事で満足し、諦める事にする。 「昨日借りた、手袋とマフラー、返すの忘れた。今、橘さんち」 「ああ、そう言えば、そうだな」 「それで……」 どうすれば、いいのだろう。 桔平か杏に託して、明日以降にふたりに返してもらうべきか。 今から走って橘家に行って、走って届けに来るべきか。 答えを求めて天根が石田の瞳を見上げると、石田は桜井の瞳を見下ろして、ふう、とため息ひとつ吐きながら、桜井が天根を見上げた。 「しょうがねえから、まだ貸しておいてやるよ」 「え?」 桜井の言葉の意味がイマイチ判りかねて、天根は聞き返す。 「その代わり、ちゃんと返しに来いよ、って事だ」 「……!」 「あ、それとも、俺たちが取り返しに行った方がいいのかな?」 石田の提案が、あんまりにも素晴らしくて、天根はしきりに頷いた。 東京みたいに人やものに溢れていたりしないけれど、みんなにも見てもらいたい。自分たちが大好きな海。それから、そこで一緒に遊べたらもっと素敵だ。 「約束!」 天根は右手で桜井の、左手で石田の手をしっかりと掴み、力一杯振り回した。 |