スポンジで食器を洗う音や水の流れる音の中に、天根のダジャレと伊武のぼやきが交じり合って台所から届く。 そこに時折食器がこすれあう音が混じり、食卓に残って雑談を続ける一同は、天根が食器を割らないかどうか、内心どきどきしていた。 本音を言えば、天根が食器を割ってしまい、伊武に延々とぼやかれはしないかと、どきどきしていた。 一同の中で最も天根を心配していたのはどうやら桔平のようで、手にしたコップを落ち着きなく、口元とテーブルの間を行ったり来たりさせてから、決意を表すようにタン、と小さな音を立ててテーブルの上に戻す。 「やはり……手伝ってくるか」 そう言って桔平が音もなく立ち上がると、すかさず黒羽が引き止めた。 「あいつらは任せてほしがってんだから、任せてやれよ」 「しかし、さすがに十人分ともなると量が多いからな」 「大丈夫だって。それともなんだ? 橘サンは、俺と一緒に居るよりあいつらと一緒に居たいのかよ」 杏が口元を抑えながらにこにこ笑った。 「そう言うわけではないが……」 桜井は頭を抱え込みながら、ふたりから目を反らす。だいぶ慣れてきたのか、口の中の水を噴出さずにすんだようだった。 「でも、天根はすごいですよね」 何事もなかったように、森が微笑みながら言う。 「何が?」 「深司にどれだけぼやかれてもへこたれないところが、強いなあと思って」 それは、日々あれだけスゴイ蹴りを食らっていれば、伊武のぼやきくらい何て事ないんじゃないか、とか。 日々あれだけスゴイ蹴りを食らっているせいで、神経が鈍ってしまったのではないだろうか、とか。 内村や神尾は、森にそう言ってやろうかと思ったのだが、それらを言わずに飲み込んだ。飲み込みながら、どうやったらそんなに好意的に受け取れるんだろうと、少しだけ悩んだ。 「そりゃ、ぼやきを伊武流のツッコミだと思ってるからだろ?」 「そうかもしれないですけど、でも俺なんて、深司が俺のプレイの悪いとこ注意してくれてても、やっぱりあれだけぼやかれたら、凹みますよ」 それは、深司は森の事を思って注意してくれてるんじゃなくて、本気でぼやいてるだけなんじゃなかろうかと、石田や杏は思ったが、ふたりは優しかったので、言いたくても言えなかった。 「ま、そりゃ、アレだろ」 黒羽は歯を見せるほどの満面の笑みを浮かべ、森に答える。 「ウマが合うってやつじゃねえの?」 「俺と橘みたいにな」とは続けないでくださいね、と。 桜井は両手で包み込んでいたコップをぐっと握り締めながら、心の底から強く祈った。 天根はきゅっ、と蛇口をひねる。 「これは水曜日と土曜日しか使えない。なぜなら……」 「まさか『すいどうだから』とかくだらない事言わないよね。言うのは勝手だけどさ、うざいから、他のやつに言ってくれないかな。あとさ、今日は月曜日なんだよね。普通に使えてる所でそのネタはどうなの? せめて水道とめてから言えば?」 「……うぃ」 少しだけしょぼくれながら、天根は食器を洗うために手を動かした。 ちなみにしょぼくれている理由は、ネタを先に言われたからでも、ぼやかれたからでもなく、伊武の言う通り先にネタをしこんでおいた方がおもしろいかもしれない、と思ったからである。天根としては、他の何で負けようとも、駄洒落で負けたままでいるわけにはいかないのだ。 今日リベンジできなければ、次にいつ会えるか、判らないのだし。 そんな事を考えはじめたら、なんだか途方もなく寂しくなって、ぼんやりしてしまった天根は、手にしていた皿を取り落としてしまった。 意識にかかっていた深い霧を掃うほどに大きな音が響く。 慌てて取り落とした皿を見てみれば、なかなかに頑丈なようで、ひびが入ってるわけでも欠けているわけでもなく、天根はほっとため息をついて、落ち着いた気分を取り戻していた。 はあ、と、わざとらしく吐かれた伊武のため息が耳に届くまでは。 「お前、本当に役に立たないよなあ……よくそれで自分ひとりで食器洗いするとか言い出せたよね。身のほどを知れよ」 「うっ……」 「割れてなかったからいいけどさあ、これで割れてたらどうするつもり? 一緒に洗ってた俺も連帯責任になるだろ? あーあ、やんなっちゃうよなあ……」 「ご、ごめん」 天根はいっそうしょぼくれた。 今までのぼやきとは何となく違う。伊武は本当に、機嫌を損ねてしまったのだろう。 「あ、あのさ、伊武」 食器洗いを再開しつつ、天根は伊武に話しかける。 しかし伊武は無反応で、線の細い横顔を天根に見せるのみ。ときおりまばたきをするくらいで、能面のように表情を固めたままままだ。 「今度来る時は俺、ちゃんとネタ、しこんでくる」 「別に頼んでないんだけど。むしろさ、やめてくれない?」 「……」 それは、つまり。 とても悲しいけれど。 「判った。俺、もう来ない」 天根にとって昨日も今日もとても楽しかったけれど、伊武は迷惑していたんだろうか。 二日だからなんとか我慢してやろうとか、思ってたのかもしれない。 ごめんと一言、謝らなければならないのかもしれないけれど、どうしてもそんな気になれなくて、天根は黙りこんだ。 「ちょっと待ちなよ。俺は別に、お前にもう来るななんて言ってないだろ? なんだよその反応。しかもそんなに凹んでさ。俺が最低の極悪人みたいに思われるだろ。いいかげんにしろよな。むかつくなあ……」 「……うぃ?」 それは、つまり。 「また、遊びにきてもいい?」 突然、伊武の手から皿が滑り落ちる。 がん、と音は鳴ったけれど、割れる事も欠けることもなく、なんとか無事だった皿を、伊武は慌てて拾い上げる。 「……伊武、俺と同じ事、した」 天根のごくあたりまえの指摘が、伊武はたいそう気に入らなかったのか、顔を上げ、キッと天根を睨みつけた。 「うるさいな。お前がヘンな事言うからだろ。何自分勝手に都合のいい解釈してるんだよ。あんまりお前の頭の中がおめでたいから、驚いたんだよ。そうじゃなかったら、俺がこんな、お前みたいな事するわけないだろ。なんだよ、ちょっと失敗したくらいで揚げ足とってさ。むかつくよなぁ……」 長々と続く伊武のぼやきを聞きながら、またいつかこのぼやきを聞けるんだなあと、天根はうきうきして微笑む。 その笑顔が、余計にぼやきを長引かせている事には、もちろん気付いていない。 |