胸の中のドリーム

「天根?」
 橘の呼びかけに、天根はスプーンを咥えたままで、反応する事はなかった。
「サラダに手がついてないぞ。きちんと野菜も食べろ」
 やはり、短い返事をするでも、頷くでもなく。
 いつの頃からか天根が、眉間に皺を寄せたまま一言も発しなくなっている
 その事実に気付いたタイミングはそれぞれ違っていたが、少年たちが目の前のカレーを平らげ、杏が少年たちが争うようにおかわりを盛る様子を微笑ましく見守りつつプリンを皿に盛りつけはじめた頃には、全員が気付いていただろう。
 もっとも天根ヒカルと言う男は、元々さほど饒舌な方ではなく、こうして十人もの人間が一箇所に集まってしまうと、ただでさえ少ない発言数を更に減少させる傾向にある。
 全体に対する発言と言えば駄洒落くらいのもので、普段は語りかける対象を絞った会話を好むのではないかと、不動峰中二年一同が昨日一日を一緒に過ごして判断していた。
「あいつは誰かに話をちゃんと聞いてもらえないと耐えられないんだろ。甘ったれの典型だよねまったく……」
 と、昨日の帰りに伊武がぼやいていたのを、神尾はふと思い出しす。そりゃ、話すからには誰かに聞いて欲しいのは当然で、誰も聞いていないのに延々とぼやき続けるお前の方が珍しいんだよ、と返す勇気がなかった事を、少々悔やみながら。
 そう言うわけで、それぞれが無意識に、「自分以外の誰かが天根と会話をしているのだろう」と思っていたために、具体的にいつ頃から天根が黙りはじめたのかを、はっきり知る者が居なかった。
「天根……」
 桔平の声に不安の色が宿る。
 いつも堂々としている桔平に不安げな声を出されると、二年生たちにも不安が伝染していく。
 天根は実はグルメで、こんなまずいカレー食えるか! と思っているとか。
 カレーはシーフードしか受けつけない体なのかとか。
 風邪でもひいて具合が悪いのかとか。
 まっとうなものから見当違いなものまで心配しつつ、眼差しが天根へとふりそそぐ。
「気にすんなって。こいつ、たまにあるから、こう言う事」
「だが……」
「サラダの事ならまかせろ。俺が責任持って食わせるから」
 別にサラダの事なんて誰も心配してませんと言うべきか言わないべきか、神尾が悩んでいるその時、
「そうか。問題ないなら、いいのだが」
 桔平が安堵のため息を交えながらそう言ったので、神尾は悩むのも、天根を心配するのもやめ、黒羽に尊敬の眼差しをそそぐ事にした。
 黒羽さんって、すげえよな。
 たった一言で、橘さんも、俺たちも、安心させちまうなんて。
 神尾たちと黒羽では、天根と生きてきた時間の長さが圧倒的に違い、当然理解の深さも違うわけなのだから、天根の事に関して対等であれるとははじめから思っていない。
 しかしそれだけではなく、黒羽の底の深い力を見せつけられたような気がして、神尾はなんとなく気分が昂揚した。
 そりゃ、橘さんだって、黒羽さんに惚れこんじゃうよな!
「んじゃ、天根なんてほっといて、プリン食いましょう、プリン!」
 神尾はリズムに乗って席を立つ。
 杏は今も台所でひとりプリンを盛りつけているのだ。「まかせてね」と杏は笑っていたが、それをテーブルに運ぶ手伝いくらいは神尾にだってできる。
「!」
 降り返りざま、神尾の視界の端っこに映った天根が、動いた。
 咥えたままのスプーンを空になったカレー皿に戻し、ゆっくりと首を動かしてテーブルについている己以外の七人の顔を一瞥してから、視線を石田の所でとめる。
「石田」
「な、なんだっ」
 緊張のあまり若干身構える石田。
 そんなに固くなるなよと、忠告してやるべきか、否か。
 悩む間すらなく。
「カレー。作るのに、どれくらいかかった……?」
「え? 時間? 金額? 金額は、買い物班の桜井に聞いてもらわないと、判らないぞ」
「時間でいい」
「時間って……十時ごろに集まって、十二時ちょっと過ぎにできたんだから、二時間くらい、じゃないのか?」
 そのくらいの引き算、誰にでもできる。石田にも、神尾にも、天根にだって。
 それなのになぜ突然、そんな事を聞くのか。
「ニ時間も、かかったのか」
 答えはひとつだった。
「あんな、カレーになあ……」
 空気が凍りつき、ほとんどの人間の表情や体が硬直する中で、動揺する事なく素早く反応できたのは、ただひとり。
「お前、まだそのネタ引きずってたのかよ!」
 黒羽の蹴りが素早く強烈に天根の頭部にヒットし、衝撃で天根はひっくり返った。
 今までさんざん黒羽の乱暴なツッコミを見てきた一同も、今まで聞いた事のないような音が響いた事に驚いて、転がる天根の生命の心配をする。
 が、本人は痛みなど気にもならないようで、
「俺、立派なトルストイになれた……!?」
 などと半ば興奮気味であった。
「日本人がトルストイになれるか!」
「周りをさんざん心配させといて駄洒落考えてただけってなんだよそれ。信じられないくらい最低だね。しかも他人のネタをパクッた上に大しておもしろくないし。心配して損したよ。まあ俺は別にお前なんかどうでもいいから、心配してないし、どうでもいいけどね」
 転がったまま、内村のツッコミと伊武のぼやきを受けとめながら、黒羽に蹴られたところをさすりながら、天根は小さく笑う。
 実に満足そうな笑顔であった。


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