5cmと45日

「もしもし? ああ、杏か。父さんか母さんは居るか? ……そうか……じゃあすまんが、もう一泊していく事になったと伝えておいてもらえるか? 黒羽の両親が急に実家に帰る事になってな……え? 土産? 判った判った、何か買っていくから。とにかく頼んだぞ。戸締りはきちんとしろよ」
 カチャリ、と受話器を置いて、橘は振り返る。
 黙々と夏休みの宿題を進めていたはずの黒羽と天根は、どうやらじっと橘の背中を見つめていたようで、振り返った瞬間ふたりと目が合ってしまう。
「大丈夫なのか?」
「ああ。事前連絡と事後報告さえきちんとしておけば、あとは気にしない親だからな」
 橘は立っているついでにと、冷蔵庫から麦茶を取り出すと、三人分のコップに注いだ。
 この家に厄介になってまだ丸一日も過ぎていないと言うのに、すっかり馴染んでしまっている自分に驚く。
「ありがとう橘さん」
「ん?」
 天根が突然礼を口にしたのは、注いですぐに麦茶を飲み干した直後だったので、はじめは麦茶の礼かと思った。しかし、どうやらそうでもないらしい。
 夕方の少し涼しくなった風に揺らされた風鈴の音に誘われてそちらに目を向ける天根。
 その真剣な眼差しにつられて、橘も外を見る。太陽は西にだいぶ傾いており、あともう少しで空は赤く染まるだろう――明日も晴れならば。
「バネさん、ひとりにしておくと、たいへん。この間は風呂上りに素っ裸で寝て、風邪ひいて倒れた」
 真面目な表情と声音で言うには、少々間抜けな内容だった。
「そうか、それは……確かに大変だな……」
「そう、たいへん。春風が夏風邪を引いちゃって……プッ」
「そのネタはもう飽きたんだよ」
 立ち上がった黒羽は、座ったままの天根の後頭部を、蹴ると言うよりは踏みつける形でツッコミを入れる。その勢いで前方に傾いた天根は、額をテーブルに打ちつけてしまい、声にならない悲鳴をあげながら悶えていた。
 天根が英語ができないのは、黒羽が頭を蹴り続けるせいかもしれない。
「さってと、買い物行こうぜ! 冷蔵庫の中、ほとんど残ってねーだろ?」
「ああ」
 元々それほど詰まっていたわけではない冷蔵庫の中身は、育ち盛りの少年三人の胃袋を満たすためにあらかた食べ尽くされてしまった。天根のお気に入りの卵焼きを作ってやることすらできない。
「ダビ、ビデオの下に封筒入ってるらしいから、それとってくれ」
「うぃ」
「その封筒がどうかしたのか?」
「おふくろのへそくりその3だと。それで今日をしのげってさっき親父が」
 配偶者に場所を知られている時点で、それはもうへそくりではないのではないかと橘は思ったが、とりあえず黙っておく。
 おそらくはそれが、黒羽家のありかたなのだろう。平和でいい事だ。
「バネさん、一万円も入ってる!」
「マジでか!? じゃあいいもん食えるな〜!」
「何か食べたいものはあるか?」
 橘が訊ねると、ふたりは腕を組み、目を伏せ、眉間に皺を寄せて考え込んだ。
 いつでも、どんな小さなことに対しても、一生懸命。
 それが六角のいいところだ。
「焼きもろこし」
「いちごチョコパフェスーパーデラックス」
 そうして導き出された答えに、橘はどうしようもなくなった。
「すまん。どちらも作れそうにない」
 謝罪しながら、いや、焼きもろこしなら醤油をつけて網で焼けばできるのだろうか? などと考えこむ橘の肩に、ぽん、と黒羽の大きな手が乗る。
「悪ぃ、お前に冗談があまり通じないのを忘れてた」
「……冗談だったのか?」
「俺、本気」
「てめーの金で食ってこい」
 素早く天根を蹴り飛ばし、封筒から取り出した一万を財布にしまうと、黒羽は玄関に向かった。

 黒羽家から歩いて五分、寒いほどに冷房の聞いたスーパーに、三人は足を踏み入れる。
「俺、ハンバーグ食べたい」
「いや、橘の料理の腕は和食で生きるぜ。今度は煮物系でどうだ?」
「ハンバーグ!」
「煮物!」
 放っておけば延々と続きそうな言い争い。
 少年たちの声は大きく、スーパー中に響き渡っている。
 おそらくこれは、彼らにとっていつもの事なのだろう。店員も、買い物客たちも、ふたりをほほえましく見守っているだけだった。
 しかしこの状況にまだ慣れていない橘にとっては、気恥ずかしくてたまらない。なんとかふたりを止めようと、建設的な意見を口にしてみる。
「間を取って煮込みハンバーグでどうだ?」
 すると天根は嬉しそうに頷き、黒羽は不服そうに拳を握り締めた。
「どこが間とってんだよ! ほとんどダビよりじゃねえか!」
「……確かにそうだな。すまん」
 そこで橘は、そんなに言うならふたりの希望通り、ハンバーグと煮物でも作ろうと決意した。あまり相性のいい組合せとは思えないが、彼らの胃ならば問題ないだろう。
「ではハンバーグと……煮物とは、具体的に何がいいんだ? 範囲が広すぎる」
「なんでもいいけどな。お、なんかじゃがいも特売らしいぜ。じゃあ肉じゃがな」
 橘にも天根にも反論の余地は与えられず、黒羽は自身が持つかごにじゃがいもをはじめにんじんやらたまねぎを放り込み、「肉としらたきはあっちだぜ!」と歩き出す。
 橘が肉じゃがをつくれない、と言う仮定は、彼の中にはないのだろうか。
 まあつくれるのだから、構わないのだが。
「やはり買い物は地元の人間に任せるに限るな。天根、お前は黒羽と一緒に行ってくれ」
「……橘さんは?」
「塩が切れていたから、それを探しにいってくる。あとは任せたぞ」
「うぃ!」
 バタバタバタ、と大きな足音を立てて黒羽を追う天根の背中を見送ってから、橘は醤油を探すために歩き出した。
 スーパーの商品の配置など、大体のセオリーは決まっている。しかも、天井から大まかな表示が釣り下がっているので、それに従えば間違う事はない。
 ただひとつ問題があるとすれば、この店の商品を陳列する棚が、異様に高い事だ。
 高ければ高いほど商品を積めると言う考え方は判らなくもないが、あまり高いと手が届かない。客の大半である主婦層に届かない高さと言うのは、いかがなものか。いわゆる「売れ線」らしき商品は、低めの棚に置いてあるため、それほど苦情はないのだろうが……。
「塩……塩、と」
 調味料の列を進み、ようやく目的であった塩の棚を見つけ、橘は足を止めた。
 買いものを頼まれた時に幾度か買った事のある塩の袋に無意識に手を伸ばし、指先が触れようと言うところで、止める。
 違う。これは橘家で常用しているものであって、黒羽家で使っているものではない。
 黒羽家で使っているものは……。
「ほい、と」
 背後から突然手が伸びて、一番上の棚に置いてある塩を取る。
「黒羽」
「塩ひとつ買うのに、なに時間食ってんだよ……って、ああ」
 野菜やら肉やらが大量に入りこんでいるかごに塩を投げこんだ黒羽は、橘の足先から頭の天辺まで視線を巡らせてから、少々意地悪そうに満面の笑みを浮かべた。
「そーか。お前届かなかったのか、この一番上の棚」
「っ……そんな事は」
「いいっていいって、気にするな。高いとこのモン取るのは、背の高いヤツの仕事だからよ」
 まるで小さな子供をあやすかのように、黒羽は橘の頭を撫でる。
 それがむしょうに悔しいのは、なぜだろう。
「……たかが五センチだろう」
「されど五センチ、だろ?」
「森や桜井や神尾と同い年のくせに……」
「ん? 何か言ったかな? 橘サン」
 橘は勝ち誇った微笑みを浮かべ、黒羽を見上げた。
「いいや、何も」
 先ほどまでの笑顔はどこかへ旅立ってしまったらしい。黒羽は不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、橘の頭を突き放すように手放す。
「精算いくぜ」
 背中を向けると同時に、かすかに橘の耳に届いたのは、悔しそうな舌打。
 まったく、言い出しっぺは自分だろうに。
 拗ねているとしか思えない黒羽の様子がおかしくてたまらなかったが、ここで吹き出してしまえば黒羽の機嫌が本格的に悪くなりそうだったので橘は必死にこらえてみた。
 そして。
「今日は最高に美味い肉じゃがを作ってやるからな」
「……おう!」
「子守りのバネさん」も、餌付けにはたいそう弱いらしい。


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