スマイル・フォー・ミー

 橘家からスタートした年賀状配布ツアーも、十二時三分をもって終了となった。
 発案である黒羽は、一枚、また一枚と年賀状を届けるたびに、うきうきと気分が昂揚してきたが、逆に隣を歩く桔平は、手元の年賀状が一枚減るたびに、徐々に表情を険しくしていた。
 黒羽が最後の一枚を石田家の郵便受けに滑り込ませてから、
「ちょっと遅刻しちまったな。まあ、家に呼ばれた時は、五分遅刻するのがマナーだって言うしな」
 ウソかホントか、以前佐伯にすりこまれた知識を披露しつつ、桔平の方に振りかえってみれば、桔平の眉間には深く皺が刻み込まれている。
 さっき気持ちの整理をつけたんじゃなかったのかよ、しょうがないヤツだな。
 そう思いつつも、もし橘桔平が、これから妹の修羅場に突入する事になるかもしれないと言う状況で何も感じない男だったとしたら、自分はそれほどこの男に惹かれる事はなかっただろうと思うので、黒羽は小さく苦笑しつつ手を伸ばし、桔平の眉間の皺をほぐしてみた。
「何をする」
「そんな怖い顔してたら、ダビが泣くっつうの。石田だってビビるぜ?」
「……」
 不本意そうな表情をとりつつも、自覚はあるのだろう。黒羽に反論する事なく、桔平は黙り込んだ。再び黒羽に触られる事から逃れるためか、自分で何とかしようと努力しているのか、自ら眉間を抑えている。
「何かいい匂いすんな。石田んちの今日の昼メシは、カレーか?」
「……意地汚いぞ」
「しょうがねーだろ、腹減ってんだからよ」
 黒羽はインターホンを押しつつ、「そう言えばなんで杏は、わざわざ昼飯時に俺らを呼んだんだ?」と思いながら、僅かに首を傾げた。
『はい』
 数秒ほど待つと、機械を通したためにくぐもった、しかし聞き慣れた石田の声が、ふたりの耳に届く。
「お、石田か。黒羽&橘だ! 言われた通り来たぜ」
『え!? もうそんな時間ですっけ!?』
「……五分前に十二時のチャイムが鳴っていたと思うが」
『うわー、聞こえなかったな……え、えっと、ちょっと待っててくださいね!』
「おい、ふたりとももう来ちゃったよ!」と慌てる石田の声をむりやりかき消すように、ガチャリ、と音が切れる。
 なんだか、招かれざる客、って感じだな。そっちが呼んだくせにな。
 さすがの黒羽も嫌な予感がして、ふと桔平を見下ろしてみれば、せっかく和らいでいた桔平の眉間の皺が、再び深く刻まれていた。しかも、前よりもいっそう深く。
 嫌な緊張だ。
 現状をなんとか打破する方法は無いだろうかと、黒羽は思考を巡らせてみたが、今の黒羽にできるあらゆる事は、今の桔平に対して逆効果に思えた。
 一分も間は無かっただろうが、やけに長く感じた沈黙を破り、石田家のドアが開く。
 出てくるのは、石田か、天根か、それとも杏か。
 構えていた黒羽と桔平のふたりは、出てきた顔ぶれが予想の外にあった人物だった事に、少々拍子抜けした。
「橘さん! 黒羽さん!」
「ふたりとも、わざわざすみません」
 はしゃぐように飛び出してくる内村と、けだるそうにゆっくりと出てくる伊武。そしてふたりの後を、大柄な体を小さくしてとぼとぼついてくる天根。
 桔平の顔に動揺が色濃く映る。
「……どうなっているんだ?」
「えーっと、ですね」
「俺たち、居てもあんまり役にたたないから、時間稼ぎ?」
「時間稼ぎ? それこそどう言う……」
「お前本当に馬鹿だよね。前から馬鹿だ馬鹿だって思っていたけど、今ほど思った事はないよ。なんでそう言う事考え無しに言うわけ? 言ったら意味が無くなるって考えないわけ? 考えられるわけないか。お前の頭の中はくだらない駄洒落でいっぱいだろうからね。ほんと困るよこいつ。どうしたらもう少し賢くなってくれるのかな……」
 伊武のぼやきに、天根はすっかり泣きそうだったので。
 なんだこいつ、橘が怖くなくても泣きそうだ。と、黒羽は思った。
 なんだ、天根が泣くのは俺のせいではないな。と、桔平は安心した。
 ふたりともそんな事を考えるに耽ってしまったので、当初抱いていた疑問をすっかり忘れてしまい、それどころか「泣くな! がんばれ! 負けるな!」と心の中で天根を応援する始末だ。
「ええとだから、つまり、プリンを食うプリンス……」
「お前自分が王子のつもりかよ! ずうずうしいぞ!」
 げしっ、と、天根の脇腹に内村の飛び蹴りが決まる。
「そうじゃなくて、カレーは辛ぇ……」
「あのさあ、仮にも駄洒落を愛するとか宣言するなら、そんな誰でも考え付く駄洒落をさも得意げに言うの、止めた方がいいんじゃないかなあ……って言うか、やめてくれる? お前の趣味のせいで俺の脳細胞、破壊されそうだよ」
 追い討ちをかけるように伊武のぼやきが続いたが、天根はめげる事はない。
「あれはサラダを盛る皿だ!」
「ダビデ! いいかげんにしろ!」
 とどめは、黒羽の回し蹴りだった。
 前ふたつの駄洒落に対するツッコミを、うっかり内村と伊武に先を越されてしまったものだから、たまりたまった鬱憤がこの一撃に集約される。
 激しい衝撃音の後、天根はふらりと地面に倒れ込んだ。
 倒れ込んだ天根を見下ろしていた黒羽は、今の天根の駄洒落三連発に、なんとなく思うトコロがあった。いつも目の前にあるものを駄洒落の題材にする天根が、ちょうどお昼時に、プリンとカレーとサラダである。
 そして、どこからか香るカレーの匂いと、先ほどの石田の慌てぶりや「天根と内村と伊武が役立たず」発言や「時間稼ぎ」発言が合わさって、黒羽の中で「なんとなく思うトコロ」は、ほぼ確信と化していた。
「ダビデ」
「うぃ?」
「お前、ほんっとに、馬鹿だよな」
「! それは、バネさんがいつも俺の頭、蹴るせい!」
「なんだよ! なんでもかんでも俺のせいにすんなよ!」
 判ってしまった。けれど。
 この健気でかわいい後輩たちの気持ちを汲んで、知らないふりをしてやろうか?
 黒羽がふと顔を上げて、桔平を見ると、桔平も同じ事を思ったのだろう。眉間の皺をすっかり取り払った優しい微笑みで、黒羽の視線に応えるように、頷いてくれた。


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