歳が明け、正月気分が抜けたか否かのうちに、街のディスプレイはすっかりバレンタインに染まっている。 そのため、桔平は一月上旬から、バレンタインの存在を思い出せていた。 うっかり自分の誕生日すら忘れかねないと評判の桔平だが、ここ数年、バレンタインを忘れた事がなかった。なぜならば桔平にとって、バレンタインは縁遠いイベントではないからだ。 しかし、一般男子のように、今年はチョコレートを貰えるのか、もらえるとしたらいくつ貰えるのか、と男のプライドを賭けたイベントではなく、 「お兄ちゃん、一緒にチョコ作ろう」 と、妹にチョコレート作りを手伝わされるイベントであった。 杏の料理の腕はけして悪いものではない。だから、チョコレートくらいひとりで作れるだろうとは思う。 しかし、より料理上手な桔平の手を借りて、想いを込めるチョコレートの味と見栄えを少しでも良くしたいと言う女心が可愛らしいと思わない事もないので(兄バカと言われても仕方がない)、桔平は毎年この時期、杏と一緒に台所に立っていた。 「杏、俺は受験生なんだがな」 「いいじゃない、たまには息抜きしたって! そんな切羽詰まったレベルの高校受けるわけでもないくせに!」 確かに杏の言う通り、模試の判定はずいぶん前からAではあった。 「しかし、入試まであと十日……」 「だーめ! こんな大事なイベント、逃すなんて、絶対ダメだからね!」 去年までの杏とは気迫が違う。桔平の腕を掴んだまま、離しそうにない。 ああ、そうか。 桔平は可愛い後輩の内のひとりの顔を思い出し、小さく微笑む。 去年までと、チョコレートに込める想いの強さが違うのだ。 「仕方ないな」 「よーし、じゃあ、頑張ろうね! もう材料は買っておいたから!」 杏は桔平の腕を引き、台所へ突入した。 テニス部員たちに配ると思われる義理チョコと、父親&桔平あてのチョコと、本命チョコと。 最低限数えてみるだけで、結構な数である。 「お父さんとお兄ちゃん用には、当日ケーキ作るからね。みんなで食べようね」 「ああ」 「アキラくんたちには、今年はチョコクッキーにしようかと思うの」 「なるほどな」 では、目の前にある型は、本命チョコ用なのだなと、桔平は理解する。 ハート型とはずいぶんとベタだな。 半ば呆れかけた桔平だったが、目の前で恋人が他の男たちに(義理とは言え)手作りチョコ(クッキー)を配っているところを目の当たりにせざるをえない男の気持ちを考えると、このくらい判りやすい事をされた方がいいのかもしれない、とも思う。 「で?」 「何?」 「どうして型がふたつあるんだ?」 ふたつのハートの型を手にし、桔平は杏を見下ろす。 杏は一瞬きょとんとしてから、桔平の背中を思いきり叩いた。 「やーだ、何言ってるのお兄ちゃん! だって、必要じゃない!」 未だくすくす笑い続ける杏。 ……必要だろうか? まあ、石田は体が大きいからな。 このくらいのチョコレート、ふたつくらい軽く食べるのかもしれないな。 桔平は納得して、妹との共同作業を続ける事にした。 台所から発生する甘い香りが、橘家中に広がっていく。 「うん、いい感じ!」 良い色に焼けたクッキーを眺めて、杏は満足そうに微笑む。 送る人数もけっこうなものであるし、ひとり一枚と言うわけにもいかないので、三回オーブンを稼動させ、ようやく必要枚数が揃った。 冷蔵庫の中にあるハート型に流しこまれたチョコレートも、もうすぐしっかり固まるだろう。 「もう、俺はいいな」 「えー? ……まあ、いっかあ。ほとんどお兄ちゃんが作ったようなものだし。ラッピングくらい私がやっても」 こいつはラッピングまで手伝わせるつもりだったのか、と桔平は呆れたため息を吐いた。 「一枚貰うぞ」 焼きたてのクッキーを一枚、天板から盗み取り、桔平は口の中に放り込む。 甘すぎない、ほんのり苦いチョコレートの味が、口の中に広がった。 「あー、ダメだよお兄ちゃん! 味見分はもう食べたじゃない! 枚数足りないよー!」 「そうなのか? それは悪かったな」 謝ってみたものの、杏の機嫌は直りそうになかった。残された材料でもう一枚分作れ、と言われかねない勢だったので、桔平はたまらず苦笑する。 「いいよもう、黒羽さんの分から一枚減らすから。お兄ちゃんが食べちゃいましたって書いとこ」 突然、聴き慣れた名前が杏の口から飛び出した。 「黒羽にも贈るのか?」 「うん、ついでだし。天根くんのぶんも一緒に送ろうと思って」 「……そうか」 桔平の脳裏に、バレンタインチョコの数に微妙にこだわりそうな黒羽と、甘いものに目がない天根の顔が、瞬時に蘇った。 「お兄ちゃんが当日千葉に行ってくれればいいのになあ」 「だから受験生だと言ってるだろうが。俺だけでなく、黒羽もな」 「そうよね〜……うん、じゃ、諦めて宅急便で送ろうっと」 「ああ、そうしてくれ」 荷物を開けた瞬間、きっとふたりは喜ぶだろう。争うように食べ尽くして、争うように電話をかけてくるに違いない。 そして桔平は、「お前のせいで俺のクッキーが一枚少なかったじゃねえか!」と黒羽に責められてしまうのだろう。 あまりに容易く想像できてしまう事がおかしくて、桔平は笑いをこらえるのに必死だった。 バレンタイン当日。 「おう、ダビ!」 名を呼ばれて降り返ると同時に、何かを投げてよこされ、天根は慌ててキャッチする。 「クッキー?」 「ああ、今日うちに届いてたんだ。杏から俺とお前にってよ。ほら、バレンタインだろ?」 「……ああ」 わざわざ千葉まで送ってくれるなんて、律儀だなあ。 天根は杏の心遣いに感心しつつ、さっそうと袋を開けて、ぼりぼりクッキーを食べはじめた。 甘さ控えめで、美味しい事は美味しいのだが。 もうちょっと甘くてもいいんじゃないかな、とも思う、甘党の天根だった。 「そんでな」 「うぃ」 「俺にも杏からクッキー、届いてたんだけどな。なんか橘が食っちまったせいで、お前のより一枚少ないらしいんだけども」 聞いた瞬間、天根はクッキーを奪われないよう、ふところに抱えこむ。 「それ以外に、一緒に俺宛のチョコ入ってたんだよ」 黒羽は左手にクッキーを、右手にラッピングされた箱を持っていた。 明らかに、込められた気合が違う。 天根がもらったものが義理、黒羽が持っているものは本命。そのくらいの差は、天根にも判る。 「杏ちゃんは、バネさんが好き……?」 「いやぁ、それはありえねえし。だいたい、ほら、メッセージカードついてるだろ?」 チョコレートに添えられた、小さな小さなメッセージカード。 天根はそれをひっくり返してみる。 そこには杏の名前などなく、ただ、「FROM K」とあるのみだ。 「……K?」 「杏ならAだからなあ」 「就職情報誌みたいになるからやめてみたとか?」 「だからって別人のイニシャル書いてどうすんだよ。まだ名無しのがマシだろ」 「……そうか」 黒羽と天根は、しばらく顔を見合わせ、同時に首をかしげた。 謎は深まるばかりである。 |