今思うと、少し緊張していたのかもしれない。 カーテンの隙間から桔平の部屋に差し込んでくる細い光を薄く開けた目でぼんやりと眺めながら、天根は思った。 思い返してみれば天根は、親戚と六角の仲間たちの家以外に、泊まりに行った事などなかったのだ(旅行で旅館やホテルに泊まった事はあるが)。マクラの変化に睡眠を妨害されるほど繊細なつもりは毛頭無いが、多少落ち着きがなくなっても、仕方が無いかもしれない(そんな事を言ったら、「お前は元々落ち着きなんかねえだろ」と黒羽は笑うかもしれない)。 それに俺、夜中に橘さん、ベッドから蹴り落としちゃったし。 桔平が自らベッドを出て行ったと言う真相を知らない天根は、黒羽の布団で眠る桔平を見下ろし、申し訳無さに少しだけ胸を痛めた。 もし自分が再びベッドの上で動き回って、そしてうっかりベッドから落ちようものなら、桔平は天根に押しつぶされる事になる。そうなってしまっては、もう申し訳無いどころの騒ぎではない。 二重の意味でも緊張していたのだろう、と、天根はひとり納得して、誰も見ていないのにしきりに頷いた。 そうでなければ、 「橘サンはご老体だから、早寝早起きなんだよ」 と黒羽にからかわれ、反論する事もできなかった桔平より、予定のない休日は昼のチャイムが鳴るまで起きない天根が、早く目覚めるわけがないのだ。 「……トイレ、借りよう、かな」 本来体にかけるためにある布団を抱きしめて眠っていたために、天根の体はずいぶんと冷えていた。これも、目覚めた理由の一端と言えるかもしれない。 天根はまず部屋を見回して時計を探し出し、現在の時刻を確認した。時刻は六時半。もうひと寝入りくらいできるかもしれない。 そしてなるべく音を立てないように、ふたりの眠る布団に触れないようにベッドの上を移動し、部屋を出た。 天根が桔平の部屋に戻ろうと、廊下をぺたぺた歩いていると、ちょうどすぐ隣にあったドアが、ゆっくりと動いた。 何が出てくるのかと、足を止めて身を強張らせていた天根は、ドアの向こうから半分眠ったような顔をした杏が登場したので、ほっと胸を撫で下ろす。 「あ、天根くん、おはよ〜」 「うぃ。おはよう」 これからもうひと寝入りする気満々の自分が、この挨拶を口にして許されるのだろうかと思いつつ、とりあえず挨拶には挨拶で返すのが基本である。 「早いね〜」 「なんとなく、目が覚めたから」 「お兄ちゃんと黒羽さんは? まだ寝てるの?」 「うぃ」 天根は大きく頷いてから、 「橘さんは、すごい」 低い声で力強く簡潔に、杏に訴えた。 杏は何の事だか判らないらしく、首を傾げたまま天根の次の言葉を待っていたので、天根はぐっと拳を握り締めて続ける。 「あのすごい寝相と、同じ布団で寝られるなんて、すごい」 すると杏は、一瞬呆けたような表情をとってから、小さく吹き出した。 そんなに笑わなくてもいいのに、と天根は思う。 天根が以前黒羽と一緒に眠った時(確か小学生の頃だった)は、黒羽の寝相のあまりのひどさに、まともに眠れなかったのだから。この、睡眠の深さには定評のある天根が。 だから、あの頃より成長してぐっと破壊力を増しただろう黒羽と、同じ布団で健やかに眠る事のできる桔平はすごいと、心の底から思ったのである。 「天根くんってば、自分の寝相の事、よくそこまで言えるよね」 くすくすと笑いながら、突然杏がそんな事を言うので、 「違う。俺じゃなくて」 天根は精一杯、否定した。己の名誉のために。 「え? でも、お兄ちゃんと天根くんは一緒に、ベッドで寝たんでしょ?」 「うぃ。はじめは。でも、俺が橘さん、夜中におっこどしちゃって、今は橘さん、バネさんと一緒に寝てる」 杏の表情から笑顔が消えた。 戸惑うように顔を伏せたかと思うと、突然顔を上げて、がしっ、と両手で天根の拳を包み込む。 「ふたり、いい感じ?」 「……うん。まあ」 「じゃあ、ちょっと、待っててね」 杏は静かに、それでいて早足で部屋の中に戻ったかと思うと、数十秒だけ天根を待たせてから、再び廊下に出てきた。 手には、どうやら使いかけらしい、使い捨てのカメラがある。 「ちょうどね、フィルムが二、三枚あまってたんだ。適当に使っちゃおうかなって思ってたけど……これでふたりの寝顔、撮ってきてくれない?」 「……なんで」 「私がこのカメラに入ってる写真を早く現像したいってのもあるんだけど、それ以上に、楽しそうじゃない? ほら、森くん、写真の焼き増しできたら送るって言ってたでしょ? そこにこの写真混ぜてみたりとか、ね?」 それは。 確かにおもしろいかもしれない、と天根は思った。 あの、面倒見がよくて妙に律儀な男は、届いた写真をひとりで先に見ようとはしないだろう。 天根が一緒に居るところで。つまりは、六角の仲間が集まるど真ん中で、写真を初披露する事になるに違いない。 その時、その写真をはじめて目にして、黒羽はどんな反応をするのだろうか。 想像しただけで笑みがこぼれてくる。 「杏ちゃん、俺、頑張る!」 天根は杏が差し出してきたカメラを、しっかりと受け取る。 「うん、頑張って! 大丈夫、お兄ちゃんなら、フラッシュたいたって起きないから!」 「うぃ。多分、バネさんも」 ふたりは同じだけ強い意志を込めて見つめ合い、頷き合った。 それから天根は託された使命を果たさんと、大事にカメラを握り締めて、桔平の部屋に向けて歩き出したが、ふと足を止めて杏に振り返る。 「杏ちゃん」 「ん?」 「この使命に俺を指名してくれてありがとう」 「……どう、いたしまして。はは」 天根の渾身のネタは、杏の渇いた笑いと冬の朝の冷たい空気にかき消えた。 |