宿題と卵焼き

「ダビ、お前、メシ一杯で足りんのか?」
 三杯目をよそってもらうため、空になった茶碗を電子ジャーの隣に座る橘に差し出しながら、黒羽は天根に尋ねた。
 橘は特に不服も漏らさず、手にしていた茶碗と箸を置いて黒羽の茶碗を受け取ると、ご飯を盛る。
 その様子が何よりもわかり合っているような……とりあえずとても仲が良さそうで、天根はたいそう不服だった。
「朝ごはん、家で食べてきたから」
「食べてきたのにウチでも食うのかよ。ずうずうしいヤツだな」
 げし、と。
 身長百八十センチの天根にかかと落としが決められるほどの柔軟性を誇る黒羽は、座ったまま、左手で茶碗を受け取りつつ、天根の頭に蹴りを入れた。
「俺だって別に、食べるつもりは……」
 後頭部を両手で抑えつつ、黒羽に聞こえないよう小さく呟きながら、天根は上目使いでちらりと橘を見る。
 今日も黒羽と海で遊ぼうと、朝っぱらから黒羽家を訪ねた天根が本日最初に会ったのは、黒羽家の人間ではなくこの橘だった。
 橘はなぜか黒羽家の台所に立っていて、天根の気配に気付いたのか、リズミカルに動かしていた包丁を止め、「お前も食べるか?」と笑顔で聞いてきたのだ。
 腹は充分満たされていたはずなのに。
 台所から漂う香りに誘われて、ついつい頷いてしまったのである。
「いや、天根が食べてくれて助かった。いつもの癖で米を炊きすぎたからな」
 橘家の家族構成を天根が知るわけもなかったが、黒羽と橘のふたりだけで食べるには少々辛い量が作られただろうと予測するのは簡単だ。
 そう、これは人助けだ。と、天根は自分に言い聞かせる。
 俺が食べたかったわけじゃない。
「ほんとうめえ! ほんっとお前、料理上手いよなぁ」
「口に合ったのなら良かった」
「合わないヤツなんていねえよ。ダビ、お前いいタイミングで来たなぁ!」
「……うぃ」
 嬉しそうに朝食を摂る黒羽を眺め、天根は箸先をかじる。
 昨日橘が遊びに来てから、黒羽は本当に嬉しそうだった。
 しかも――昨日潮干狩りのあと橘がつくってくれたあさりの味噌汁の時点でそうとう危険だとは思っていたが――この朝食で完全に餌付けされてしまった様子だ。
 それは当然、小さい頃から毎日毎日黒羽と遊んできた天根にとっておもしろい光景のはずがなく、天根は心の中で、自分だけは絶対に餌付けされまいと心に誓った。
 たとえ、橘がわざわざ天根のために、砂糖入りの卵焼きを別に焼いてくれたとしても。
 その卵焼きが満腹なのに止められないくらい、できる事なら毎日食べたいくらい美味しかったとしても。
 絶対に。
「そういやおふくろ、どこ行ったんだ?」
「さっき話しただろう」
「ワリ。メシ食うのに夢中で聞いてなかった」
「朝早くに電話がかかってきてな、お爺さんがギックリ腰で倒れたから、見舞いに行くと急いで出ていった。今夜帰るか泊まり込みで世話をするかは判らないから、あとで電話するそうだ」
「はー、なるほどな。だからお前がメシ作ったのか」
 どのタイミングで、どんな角度から見ても、黒羽は嬉しそうだ。
 黒羽の目に映るのは橘だけで、自分など映っていないのではないかと思ってしまう。
 天根の箸は黒羽の母が用意してくれた天根用。橘の箸は、客用。そんな些細な事柄に、黒羽と共に過ごした時間の差がありありと表れているのに。
 時間など関係無いのだろうか。
「バネさん!」
 なんとか二人の間に入りたくて、天根は声を張り上げて黒羽を呼んだ。
「なんだよ突然?」
「遊びに行こう! 海!」
「そりゃ、別に構わねーけど」
 ようやく満足したのか、黒羽は茶碗を置き、ワカメの味噌汁を一気に飲み干して箸を置いた。
「お前、宿題終わったのか?」
「……え?」
「夏休みの。あと三日しか残ってねーだろ、休み」
 黒羽は壁に貼られたカレンダーを指し示す。
 黒羽の母親は律儀にも、過ぎた日には×をつけるらしく、それ故に夏休みの残りの日数が一目瞭然だった。
 一瞬にして血の気が引く。
 まったくもって手をつけてない夏休みの宿題が、全部でどれくらいあったのかを思い出し、天根は突然慌てだした。
「バ、バネさんは終わった!?」
「俺は良い子だからほとんど終わらせたぞ〜。あと歴史のプリント三枚」
「え、だって、三年生は英語と理科の問題集があるってサエさんが言ってた……!」
「ばーか問題集なんて解答集から適度に間違えて写せば終わるんだよ! 歴史のプリントは答えが無いから後回しにしたんだ」
 それは宿題を終わらせたと言っていいものか、と、天根はめずらしくツッコミを入れてみようかと思ったが、心底呆れて吐かれただろう橘のため息が、ツッコミと同じ役割を果たしていたので止めておいた。
 良い案だから真似させてもらおうと言う下心が、止めさせたのかもしれない。
「バネさん、英語のプリント、俺十枚もある! 教えて!」
 天根は黒羽の腕にすがりついた。
「英語なんか判るか!」
「去年習った所だろ!」
「覚えてるわけねえだろ、ボケが!」
「だって俺ボケだし!」
「意味が違う!」
 げし、と後頭部に蹴りが入る。
 天根は黒羽の、自慢にもならない事を堂々と言ってのける漢らしいところや、いついかなる時でも(強烈な)ツッコミを忘れないところが大好きだったが、今はそんな事はどうでも良かった。
 むしろ、憎らしいほどだった。
「宿題終わるまで、遊んでやらねえからな」
「う……」
「宿題終わらないうちに遊んだら、ちゅーすんぞ」
「うう……」
 それは心底嫌だったので、天根は仕方なく、宿題をする事にした。
 問題集をバネさん戦法で片付けるとすれば、三日もあれば大抵の宿題は充分終わる。
 しかし。
「英語のプリント……どうしよう」
「お前そんな日本人離れしたツラで英語がサッパリって、どう言う事だ」
「俺、日本語愛してる」
「愛情表現がくだらない駄洒落だなんて、日本語も可哀想だな」
 くだらなくないよ、と反論する前に、
「ははっ……」
 突然、低い笑い声が響いた。
 そこで天根は、橘の存在を三分ぶりに思い出す。
 驚いた。
 大会の会場でいくどか見かけた時も、昨日の潮干狩りの時も。橘は微笑みこそ多々見せていたものの、大笑いする様子は一度も見せなかった。
 この人、こんな風に笑えるのか……。
「お前たち本当に、いいコンビだな」
「あー、そうか? 毎日毎日こんな調子だから、よく判んねえなあ」
「毎日が楽しいのはいい事だ」
「そうかもな」
 黒羽は少しも否定しようとせず、照れくさそうに笑った。
 それが天根には、何よりも嬉しい。
「天根」
「うぃ?」
「俺で良ければ英語のプリントを手伝うぞ。中二レベルの英語ならば問題無く教えられると思うが」
 天根は目を大きく見開いて、橘を真っ直ぐ見つめる。
 つくるご飯は美味しくて。
 見た目ほど怖くなくて、それどころか気さくで、優しくて。
 天根と黒羽の漫才を、黙って見守ってくれて、笑ってくれたりもする。
「お願い……します」
 天根が小さな声でお願いをすると、
「判った」
 橘は小さく微笑んだ。
 その穏やかな微笑みを見ながら、「まあたまにはこの人が居るのも悪くないかな」と天根は思う。
 それから、「もう一度甘い卵焼き作ってくれたら、餌付けされてあげてもいいかな」とも。



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