君がくれた勇気

 森は、正面で繰り広げられる異様な光景を、はらはらしつつ見守っていた。
 目を反らしてしまえばいいのだと、要領のいい人間ならばすぐに考え付くだろう選択肢がまったく思い浮かばなかったからだ。
「で、ふとんが風で吹き飛ばされた時は、『ふとんがふっとんだ』って……」
「あのさあ、布団が吹き飛ばされるってどう言う事? 風が強くてベランダから布団が落ちてる所とか、布団がめくれ上がるくらいならまあ見るけどさあ……吹き飛ばされるって、そうとうな風の強さじゃないの? そんな風の中で、天根みたいに体格がいいならともかく、俺みたいな繊細なやつがそんなダジャレ言っている余裕あると思う? ないだろ? そう言うところ考えてくれないかなあ……まあ、余裕があったからって、そんなセンスのないダジャレ、言うつもりないけどね……」
 どうやら天根は、誰に頼まれたわけでもないと言うのに『天根先生のダジャレ講座』を開き、よりによって一番興味のなさそうな伊武が、その講座に耳を傾けているのである。
 もっとも、伊武は天根にダジャレを習っているつもりなど毛頭ないのだろうが。
「ねえ、内村。深司と天根くんって、仲いいね?」
 率直な感想を、隣を歩く内村に述べてみたのだが、
「は? 仲いいのかアレ。初対面であそこまでぼやかれてるやつ、俺はじめてみたぞ」
 内村はありえないとばかりにあっさりと否定し、大口をあけて笑った。
 確かに、初対面であそこまでぼやかれているやつを、見た事はない。
 ないけれど、それは伊武が初対面からひとりの人間と長い事顔をつき合わせた事がないからであって。
「なんだよ。深司とあいつが仲がいいと、なんか都合悪いのか?」
「ううん、そんな事ないよ!」
 むしろ森にとってこれは、都合がいいくらいだった。
 桔平がクリスマスパーティに黒羽を連れてきた時、森は少し、怖かった。黒羽のような人物が、ちょっと苦手だったからだ。
 黒羽はいい人で、こうして再会できて桔平は本当に嬉しそうで、だから森はもう、黒羽を怖いとは思わない(しかし神尾や内村のように積極的に突撃しようとも思わない)が。
 天根は怖い。
 背は少し黒羽より低いが、本当に少しで、彼が黒羽より一学年年下である事をふまえると、将来的には黒羽よりも大きくなる可能性を秘めている。
 黒羽より、腕も太くて力が強そうだ。
 黒羽より、圧倒的に目付きが悪い。
 黒羽よりも無口で、声が低くて。
 伊武はともかく神尾に言い包められるところを見る限り、おそらく彼の本質は怖くないのだろうが、苦手意識が簡単に拭えるわけもない。
 だからああして、伊武や橘や黒羽に懐いて、ずっと話していてくれれば気楽だなあと、森は思っていたのである。
「……あれ?」
 足元を見下ろしながら物思いに耽っていた森は、ふと顔を上げると、そこに居たはずの天根の姿が見当たらない事に気が付いた。伊武のぼやきの犠牲者は、神尾に変わっていたのだ。
「天根くんはどこに行っちゃったんだろうね」と隣の内村に話しかけようと、横を向いた森は。
 内村がいつの間にやら天根に入れ替わって居た事に、驚いて声も出せなくなった。
 遠くを見やれば内村は、楽しそうに、黒羽と橘に突撃している。
 内村の……裏切り者!
 森は内心叫びつつ、認識してしまった以上は天根を無視する事もできず、精一杯微笑みかけてみた。
 なんでこいつ、俺の隣に居るんだろう。
 って言うか、いつの間にヤキソバ買ったんだろう。
 無言でそれを食べるなら、何も俺の隣でなくてもいいじゃないか。
 そんな些細な疑問や不満を、笑顔の下に押し隠して。
「ヤ、ヤキソバ、おいしい?」
「うぃ」
「そう……良かったね」
 間が持たないのでとりあえず、ありきたりな話題を振ってみたものの、天根は頷くだけ。
 気まずい以外の何者でもないこの空気を、なんとかごまかせないかと模索していた森は、
「森」
 突然名前を呼ばれ、目を見開いて天根を見上げた。
「え? 天根くん、俺の名前、覚えてくれてるの?」
 森が天根に名乗ったのは、ただの一度だけ。初めて対面した時だけだ。
 森はすぐに天根の名前を覚えられたが、それは森が新たに覚えなければならなかった名前が、天根ひとりぶんだけだったからだ。
 たった一度の紹介で、六人の名前を全部覚えて顔と一致させるのは、そこそこ困難な事であるはず――特に、常に天根の視線から隠れていた森の名など、覚えた瞬間忘れてしまってもおかしくない。
 それなのに、
「うぃ」
 天根はさも当然のように、小さく頷くのだ。
 そして真剣な眼差しで、ヤキソバの皿を、森の目の前に差し出してきた。
「天根くん……え? これ、俺にくれるの?」
「うぃ」
 森がおそるおそる皿を受け取ると、天根の鋭い視線が柔らかくなったので、森は俯く事で天根を視界から消す。
 自分の存在がひどく恥ずかしかった。
 天根はこんなにも優しく、自分とふれあおうとしてくれているのに、なぜ自分は怯えて逃げる事しかできなかったのだろう、と。
「森」
 天根の大きくて力強い手が、森の肩に触れる。
 その温もりに勇気を与えられた森は、顔を上げ、天根とまっすぐに見つめあった。
「天根くん、ごめん。ごめんね。それと……」
「野菜をもりもり食べやさい」
「……へ?」
「プッ」
 ふと、視線を皿に落としてみれば。
 ヤキソバは見事にソバだけ完食されていて、キャベツやらタマネギやらが残っているだけの状態だった。
「ネタでごまかして……嫌いなものを森に押し付けるんじゃねえ!」
 戸惑う森の視界から、天根が吹き飛んでいった。
 代わりに現れた黒羽が、ふう、と大きくため息を吐き、森に振り返る。
「スマン、森。こいついっつも麺ばっか食って、野菜をこっそり他のやつの皿に移したり、残したりしてんだよ。図体はでかいんだけど、しょうもねえガキでな」
「は、はあ……」
「ほら、ダビ、お前と違って森は繊細なんだから、こえーツラして迫るんじゃねえぞ!」
 蹴られたダメージで転がる天根の背中を、黒羽がぎゅ、と踏み付ける。
 天根の口から搾り出された、潰されたカエルのような奇妙な悲鳴がおかしくて、森はついつい吹き出してしまった。
「野菜、ちゃんと自分で食うか?」
「食べる……食べます……スミマセン……」
「ほら、森」
 黒羽が長い腕を森に向けて伸ばしてきた。
 その大きな手に、皿を渡すのは簡単だったけれど。
「いいです、黒羽さん」
「は?」
「俺、野菜、けっこう好きですし」
 森は野菜だけが盛られた皿を手に、天根の顔の近くにしゃがみこむ。
 不思議そうに見上げてくる、砂で汚れた顔は、もうちっとも怖くない。
「一緒に食べようか?」
 そう言って森が微笑みかけると、天根は嬉しそうに頷いた。


Workに戻る  トップに戻る