空に向かって

「来年もまた、橘さんと初詣行きたいな!」
 と、言い出したのが誰であったかを、桜井は思い出せなかった。確か神尾だった気がする、と、曖昧な予想は立てられたのだが。
 言い出しっぺが誰かなどと、関係ないのだ。長く見積もってその五秒後には、その場に居た全員が同意し、みんなの望みになったのだから。

 桜井が桔平への初電話をかけたのは、年が明けて五分ほど過ぎた頃の事だ。
 昨年は、特に打ち合わせても居なかったのに自然と、「誰が最初に橘さんと新年の挨拶ができるか」といった勝負になり、桜井は見事、最下位と言う結果に終わった。
 惨敗は桜井にとって純粋に悔しい事であったが、冬休みが明けてから冷静になってみんなの話を聞き、新年早々桔平と長電話ができたのは最後に電話が通じた自分だけだと知ると、悔しさは途端に優越感へと変化した。
 その優越感は誰にも教えず、こっそりと己の胸に秘めたまま。
 挨拶だけの慌しい電話って、少し寂しいよな。
 ひとり一分として、五分後くらいに電話をかければ、ゆっくり話ができるだろう。
 今年の桜井は、去年の桜井より少しだけ大人で、少しだけ卑怯だった。
『もしもし』
 易々と通じた電話の向こうから、桔平の声が聞こえる。
 低い、揺るぎない力を与えてくれるその声を聞いて安堵しながら、桜井は言った。
「あけましておめでとうございます、橘さん」
『ああ。あけましておめでとう。桜井』
 お決まりの挨拶を済ませてから、さっそく本題(いや、挨拶する事も本題ではあったのだが)に移ろうとする桜井の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
『今年はお前が一番か』
「……へ?」
『? どうした?』
「え? 俺が一番なんですか?」
 桜井は時間を確認する。間違いなく、時計は五分を示している。
 最後の特権は、他の五人にはばれていないはず。だから、仲間たちは我先にと電話しているはずなのに。
 まさか時計がずれているのだろうか。自分がずらした記憶はないので、家族のタチの悪いいたずらだろうか?
『お前たちの中ではそうなるな。ついさっきまで黒羽と話していたが……』
「はあ。黒羽さんと、ですか」
 名前を聞いて、桜井はふと、六人そろって橘家を訪れた日の記憶を呼び起こす。
 クリスマスパーティーの日ではなく、その二日後の、黒羽にお別れの挨拶をしようと思った日の事だ。
 けれど、黒羽も桔平も、すでに家にはおらず。
「黒羽さんね、今頃お兄ちゃんとデートしてるよ! それから、千葉に帰るんだって!」
 と、満面の笑顔で杏が言った。
 全員が困惑したのは間違いなかった。
 困惑を内に秘めたか、表面に出したかの違いはあれど。表面に出したとしても、その出し方に個性はあれど。
 そしてその場に流れた沈黙と共に、困惑を、「やーだもう、冗談よ! 何みんな真面目に受け取ってるの?」と杏が笑い飛ばしてくれるのを、全員が期待していたと言うのに。
 杏はニコニコ笑っていただけだった。
「……じゃあ、俺たち、帰るわ」
 と、桜井が言って、全員が立ち去るまで、ニコニコ笑っていただけだった。
 だからおそらく、みんなはまだ困惑しているのではないかと思う。杏の真意が読めずに。
 桜井もそうだ。しかし、考えてどうなる事でもないので、うっかり忘れてみようと前向きな結論を出してみただけだ。
 その結論が、今、桔平の口から黒羽の名を聞いただけで、少し揺らいでしまう。
 いや、でも。
 うん、やっぱ冗談、だよな。
 別に、新年の挨拶を最初にしたからって。そんな事言ったら、去年の一番手だったアキラはどうなるんだ? 去年のアキラは橘さんとデートをするような間柄だったか? いや絶対にありえないから。
 うん、大丈夫大丈夫。
 そう言えば橘さん、クリスマスに黒羽さんと予定入れてたっけ。俺たちとの約束が重なったから、一緒にパーティーしたけど、そうじゃなかったら、どうなってたんだ?
 ……。
 大丈夫……だよな?
『桜井? どうかしたのか?』
 思考の海で溺れかけていた桜井は、桔平の声に救出される。
「あ、すみませんすみません。あのですね、じゃあ手短に話しますけど、橘さん、今年も初詣に行きませんか?」
『初詣?』
「ええ。去年は全国制覇をお願いに行きましたけど、今年は学業の神さまがいいですよね。橘さんの合格祈願と、ついでに神尾の成績がもう少し上がるようにみんなでお願いしに行くのはどうです?」
『初詣か……』
 桔平の声が僅かに、嬉しそうに弾んだ事を、桜井は聞き逃さなかった。
『なら、三日はどうだ?』
「三日……ですか?」
『ああ、その日にまた黒羽がこちらに来るからな。都合がつくならば、みんなで初詣に行こう』
「え、い……いいんですか?」
 桜井は反射的にそう訊ねていた。
 訊ねてから、この聞き方はおかしいだろうかと悩む。
 しかし、「お邪魔じゃないですか」と言う聞き方は失礼だろう。杏の言葉の真相は桜井には判らないのだし。真実だとすると、桔平や黒羽は真実を隠す事を望んでいるわけで……いや、桔平はそもそも、そんな隠し事をするタイプであろうか?
 桜井は桔平を心底慕っている。黒羽も、面白い人で大好きだと思っている。一緒に初詣に行けるものなら行きたいのだが。
『なんだ。いつもなら誘わなくても来たがるくせに。今日はどうした?』
 桔平の声は、再び悩み込んでいた桜井を救う。
「いや、その」
『そうだ、今回は黒羽だけじゃなく、お前らと同じ二年生もひとり来るからな。仲良くしてやってくれ』
「ああ、そうなんですか!」
 来るのは黒羽だけじゃないと言う言葉に、桜井の悩みはあっさり晴れた。
 その二年生がどんな人間であるかよく判らないが、今の桜井にとって間違いなく救世主だった。
 すでに邪魔者、居るんじゃん。
 だったら今更、俺ら六人が邪魔したところで、いいよな。
 その結論に至る仮定が微妙に歪んでいる事に、桜井は気付いていなかったが、終わり良ければ全て良しである。
『なんだ。急に元気になりやがって」
「いえいえ、三日が楽しで楽しみで!」
『それは良かった……他の連中には俺から伝えておこう。どうせこれから電話かかってくるだろうからな』
「あ、はい、よろしくお願いします! ではおやすみなさい!」
 慌てるように電話を切って、桜井はほっとため息を吐く。
 三日が楽しみだ。
 どんな奴だろう、黒羽さんが連れてくる二年生って。とりあえず優しくていい奴なのは間違いないよな。
 桜井は期待に胸を膨らませ、温かな布団にもぐりこむと、ゆっくりと眠りについて幸せな夢を見た。

 そして約二日半後。
 待ち合わせ場所で出会った天根ヒカルに、ああそう言えば夏休みに一度会ったなあ、どんな奴だったっけ、などと思いつつ、
「俺、桜井雅也。よろしく」
 桜井はフレンドリーに挨拶してみた。
 なんか背が高くて、ガタイが良くて、目付きが悪くて、一見怖そうだけれども、石田だって見た目は怖そうだけれどいいヤツだから、きっとコイツもそうだと。
 桜井は微笑みながら右手を差し出す。
「さくらい……まさや……」
「うん?」
 天根は小さく桜井の名を呟いたかと思うと、突然桜井の肩を抱き、雲ひとつない爽やかな青空を指差して、
「さあ、叫べ」
 いきなりそう言ったのだ。
「……は?」
 なぜいきなり叫ばないといけないのか。こんな公衆の面前で、空に向かって。大体なんと叫べば良いのか。いや判ったところで叫びたくはないが。
 もろもろの疑問と少々の苦情を込めて、桜井は天根を見上げる。
「桜井だけに、さあ、クライ」
「……へ?」
「あ、cryね、英語の」
「出会い頭にそれかよ!」
 ああ。
 そう言えば、こんなヤツだったっけ。
 桜井は、黒羽の強烈な回し蹴りに吹き飛ぶ巨体を眺めながら、またとんでもないヤツが来ちゃったなあと、しみじみ思った。


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