「えーっと、こっからだといくらになるんだ?」 財布の中に、小銭が入っていないわけではない。 それは端から見ている橘でも判っている事なのだから、財布の持ち主である黒羽も重々自覚している事であろう。 それなのに黒羽は、券売機を前に迷う事なく札を取り出した。 券売機に千円札を飲み込ませてから、更に小銭が入っている方を開き、また迷いもせずに五百円玉を取り出したので、 「少しは百円玉と十円玉を使ったらどうだ」 たまらず、桔平は忠告をした。 基本的に大雑把な黒羽は積極的に小銭を消費するタイプではなく、結果、大量の小銭を所有する事となってしまっているのだ。もしかすると千円札など使わずに、切符が買えてしまうくらいに。 「まあそりゃそうなんだけどもよ、財布が重いと金持ち気分になって嬉しくね?」 「もっともらしい言い訳を。面倒なだけだろうが」 「はいはい、橘サンのおっしゃる通りですよ」 黒羽は言葉は不満そうに、しかし口の端に笑みを浮かべながら、財布の中から小銭を取り出して、券売機に飲み込ませた。 チャリン、チャリンと、九枚の小銭が吸い込まれていき、黒羽がパネルに触れると、切符が吐き出されてくる。 千四百五十円分の価値がある、小さな一枚の切符。 それを手に取り、改札口をくぐりぬけると、黒羽は腕時計をちらりと覗いた。 「電車、上手い事あんのかな」 「気になるなら時刻表で調べるか?」 「や、めんどくせえからいいや。少しくらい待ったって、別に構わねーし」 多量に行き交う人の流れを避けるような位置をとり、黒羽は荷物を担ぎ直すと、桔平に向き直る。 その間、桔平はずっと、切符が握り締められた黒羽の右手に視線を注いでいた。 「どこ見てんだよ」 黒羽は少しだけかがみこみ、俯きがちな桔平の顔を覗き込む。 「今年最後のバネさんだぜ。ちゃんと見ておかないと、後悔するぞ?」 「まさか。この三日で見飽きているくらいだと言うのに」 「ぅおーい」 僅かな抗議か、黒羽の右手が桔平のこめかみを小突いた。 そしていつもの通り、拗ねたような口調で何か言われるのかと思えば、 「何考えてんだ?」 突然、真面目な口調と視線で、確信を突いてくる。 桔平は驚いて黒羽を見上げ、しかしすぐに納得した。だから結局、自分はこの男には敵わないのだと。 思い知ると、ため息を抑えこむ事もできず、ゆっくりと吐き出した。 「大した事ではない。ただ――」 未だ顔の近くある黒羽の右手から、買ったばかりの切符を抜き取る。 「ふと思っただけだ。こんな、自動券売機の限界に挑戦するような値段の切符を、今年の夏までは買った事がなかった、とな」 「……そうなのか?」 「そのようだ」 黒羽に千葉に遊びに来いと言われ、呼ばれるがままに千葉に向かった事は、今までに二度。 彼の地元に赴くのは、往復の交通費だけで充分に痛い出費で、けれどそれすらも惜しくないと思えるほどに、いや、そもそも痛かった事に今の今まで気付かないほどに、楽しく、有意義な時間を過ごさせてもらった事を。 今更ながらに感謝するのは、どうにも照れくさく、桔平は無言で切符をつき返した。 「そう言や、俺もそうかもな」 切符を受け取りながら、黒羽は小さく呟く。 「お前はオジイの使いで何度もこちらの方に来ているのだろう?」 「それはそうだけど、自分の小遣い使って来たのは今回がはじめてだって思ったからよ。でもま、小遣いっても今回用に特別にもらったから、何か違うかもしんねーけど」 そう言い終わるか否かのうちに、黒羽は温かな微笑みを浮かべ、桔平の頭に手を置く。 「ほんと、この三日間、すっげー楽しかったよ。ありがとな」 どうしてくれようかと思った。 自分が言い渋っていた台詞を、こうも簡単に口にされてしまうなどと、途方もない敗北感。 けれど不思議と悪い気分ではなく、その事実が更に癪だったりもするのだが。 「それはこちらの台詞だ。いつもありがとう」 微笑みながらそう返すのが、負けないための最後の手段に思えた。 桔平の判断は間違ってなかったらしい。黒羽は少しだけ驚いた風に、笑顔をひきつらせたのだから。 「んじゃ、そろそろ行くわ。またな」 「ああ。また」 簡潔すぎるほどの挨拶。 桔平は、人の流れに混ざりこんで目的のホームに向かう黒羽の背中を見送り、名残惜しげに一度だけ振り返った黒羽と目が合うと、小さく手を掲げる。 「……俺も、帰るか」 やがて黒羽の姿が視界から消えると、自分に言い聞かせるように小さく呟き、桔平も帰路に着く。 冬の風が、痛みにも似た冷たさで、桔平の頬を撫でた。 |