電話

 客人だからと一番風呂をもらった黒羽が、バスタオルで髪を乱暴に拭いていた時、橘家の電話が盛大に鳴り響いた。
 黒羽の正面に座る杏はその時、バラエティ番組を見ながら、司会者の軽快なトークに反応して、テレビの中の観客と共に笑い声を上げていた。電話の音に気が付くと、少々面倒くさそうに受話器を取り、気取った声で電話に出る。
「はい、橘です」
 さっきまで大口開けて笑っていたくせに、澄ました声出しやがって。
 黒羽は杏に気付かれないように小さく笑った。
「はーい、こんにちはーじゃないね。こんばんはー! いきなり電話なんてどうしたの? って、判りきってるけどね」
 どうやら電話の向こうの人物は、杏の知り合いらしい。普段の杏らしい、元気の良さを感じさせる笑顔で応えている。
「ああ、ごめんねー。お兄ちゃんね、今お風呂入っちゃってるの。もう少しで出ると思うんだけど……」
 しかもどうやら電話の相手は、桔平に用事があるらしい。
 と、言う事は、テニス部の後輩の内の誰かだろうと、黒羽は勝手に予測を立てた。
「杏、電話貸せよ」
 黒羽は電話の向こうに聞こえないよう、精一杯の小さな声で杏に訴える。
 桔平の代わりに突然自分が電話に出れば、驚くに違いない。特に神尾や森のリアクションは、この先一月はネタにできそうだ。
 黒羽がにやにや笑いながら手を伸ばすと、杏は黒羽のくだらない計画に気付いたようだった。少し企んだような小悪魔的笑顔で頷くと、「ちょっと待ってね」と電話の相手に断わってから、素早く黒羽の手に受話器を渡す。
「よう、昼間はおつかれさん!」
 受話器を受け取るや否や、黒羽は大声で言った。
 さて、どう反応する?
 ってか、相手は誰だ? 意表を突いて内村とかでもおもしろそうだな!
『昼間って何。バネさん』
 思考を巡らせて期待に胸を膨らませていた黒羽は、電話の相手が想像外の人物であった事に驚き、三秒ほど硬直した。
 不動峰の二年生はもれなく、自分の事を「黒羽さん」と呼ぶし。
 何より、この腹の底に響く低音は。
「ダ……ビッ!」
 間違いなく、六角中テニス部二年、天根ヒカルであった。
『なんでそんなに慌てるんだ……誰だと思った?』
「いやっ、別にっ」
『バネさん、東京楽しそう。もう、俺の事なんて忘れてる。……悲しい』
 受話器の向こうから、すすり泣く音が聞こえた。
 それが嘘泣きである事を、黒羽は当然理解していたのだが(ここまで棒読みで泣きまねをする勇者を黒羽は他に知らない)、黒羽が天根を放置して東京で遊び呆けていた事は事実であるために、なんともばつが悪い。
「忘れてねえよ。お前みたいな最強のアホ、忘れたくても忘れられるか」
『すごく嬉しいけど……最強は坂田さんで、俺じゃない』
「褒めてねえって」
『……え!? そうなのか?』
 黒羽は反射的に、蹴り飛ばそうになった。
 が、ここで蹴りを入れても橘家のどこかしらに損傷がでるだけなので、必死に耐えるしかない。ストレスがたまりそうだ。
「ダビ、そっちはどうだ」
『ものすごく……暇』
「そうなのか? サエや剣太郎にでも遊んでもらえよ」
『……もうやだって言われた』
 寂しそうな呟きが、受話器の向こうから黒羽の耳をくすぐる。
 背中を丸めてしょげている様子が容易に想像できて、黒羽は笑いをこらえきれずに噴出した。
『なんで笑う』
 不服そうな天根の声。
 本当にこいつは、無表情なのに、どうしてこんなにも判りやすいのだろう。
「悪ぃ悪ぃ。明日まで我慢しろ。明日、そっちに帰るから」
『うぃ』
「あ、お兄ちゃん!」
 杏の声に反応し、天根は沈黙を保ち、黒羽は振り返る。
 風呂上りの桔平は、黒羽と杏が無言で見つめてくる事に怯んでいた。
「橘にかわっぞ」
 黒羽はさっそく、受話器を桔平に手渡した。
 抑えようにも抑えられない黒羽の笑顔が、電話の相手を桔平に伝えたようで、桔平は静かな微笑みを浮かべながら、受話器を耳に当てる。
「元気か、天根」
 迷う事無く、よどみなく、紡がれる名前に間違いはない。
 受話器からもれる声は、黒羽にははっきりと聞き取れなかった。しかし(天根にしては精一杯)はしゃいでいる雰囲気が伝わってくる。
 そして、そんな天根を受け止める、桔平の微笑み。
 やっぱ、悪ぃ事しちまったな。
 ひとりで東京に来ても充分に楽しかった。天根を連れて来なかった理由はまったく別にあるが、もし天根を連れてきていたら、今回のように不動峰の二年生たちと精一杯戯れ、交流する事はできなかったような気がするから、これはこれで良かったとは思う。
 それでもやはり、天根が、桔平が、何より自分が寂しいから。
「ダビ!」
 黒羽は桔平の手にある受話器に顔を近付けて叫んだ
『バ……バネさん?』
「黒羽、あまり大声を出すな。俺の耳が痛い」
「しょーがねーだろ。こうしねーとダビデに声がとどかねえんだから」
 桔平の訴えは笑ってごまかし、黒羽は再び受話器に向かって語りかける。
「今度は一緒に来ような。不動峰のやつらも、おもしろいのばっかりだったから、みんなで遊ぼうぜ」
『……うぃ!』
 嬉しそうな、元気よく弾んだ声。
 天根が、今交わされたばかりの約束をどれほど楽しみにしているか、それだけで判った。
 桔平にも伝わったのだろう、口元がほころんでいる。
「黒羽さん、受験生なのに遊んでばっかりで、大丈夫なの……?」
 杏のごくまっとうなツッコミは、無視する事にした。


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