待ち時間

 太陽が西の空へ沈み、あたりが闇に包まれると、急に冷え込みが増した。
 これではとんこつラーメンを食す事で温まった体が、あっと言う間に冷えてしまう。
 黒羽と桔平のふたりは、こころもち急ぎ足で、橘家へと戻った。
「ただいま」
 玄関を空けて、帰宅の挨拶。
 屋内から流れる温かい空気が、優しくふたりを迎え入れてくれる。
「あ、おかえりー」
 そして空気よりも温かい、リビングからひょこっと顔を覗かせる杏の笑顔。
「ちょうどよかった。今から紅茶入れようと思ってたの。ふたりの分も入れてあげるね」
「おう、サンキュ!」
「今日寒かったよね〜、外! じゃ、ソファに座って待ってて」
 杏が軽やかに台所へと消えていく。
 朝から夕方までをテニスと子守りに費やしていたふたりと比べると、杏は体力が有り余っているようだ。なんとなく元気を分けてもらったような気になり、ふたりは顔を見合わせて微笑みあった。
 荷物を置き、コートを脱ぎ、ソファに並んで腰を降ろす。
「あー、紅茶の葉、切れてる〜!」
 台所から悲鳴が響き、ふたりは背もたれに預けていた背中を浮かせる。
 少々の戸惑いの色を浮かべるふたりに気付いているのかいないのか、杏は悔しそうな顔で台所から飛び出してくると、かけてあるコートを手に取った。
「買いに行くのか?」
「行く!」
「無ければコーヒーや日本茶でいいじゃないか」
「お兄ちゃんたちがよくても私が嫌なの! ココアで妥協しようかと思ったけど、それもないし! じゃ、ちょっと待っててね!」
 桔平の柔らかな制止に効果はない。「もう外は暗いぞ」と続けようか、まだ五時にもなっていないのだからそれはいくらなんでも過保護すぎるから止めるべきかと戸惑っているうちに、杏の小さな背中は玄関の向こうに消えていってしまう。
 黒羽が切り出したのは、軽い足音が聞こえなくなってからだった。
「お前んちは紅茶、葉で入れるのか?」
「最近、杏が紅茶に凝りだしてな」
 へぇ、と小さく感嘆の声を上げて、黒羽は再びどっしりとソファに寄りかる。ぼんやりと天井を見つめ、照明が眩しかったのか目を細める。
 空気が乾燥しているせいか、少し喉が乾いたな。
 桔平は杏が帰ってくるのを待たず、何か飲み物を入れようかと考えた。しかしそうすると、杏は戻ってきた瞬間何やら文句を言いそうである。
「杏が戻るまで待てるか?」
「ああ、それは別に構わねえよ。それより」
「なんだ?」
 黒羽の目が不満の色を濃く浮かべ、桔平を見下ろした。
 表情の変化があまりに突然だったので、桔平は少々不安を覚える。
 何がそんなに不満なのだろう? やはり喉が乾いているのだろうか? いや、ならばそう言えばすむ話だろう。意味のない遠慮をするような人間ではなかったはずだ。
「千葉県の市町村ひとつも言えなかったってのはちょっと酷くねえか?」
 ……その事か。
 桔平は安堵し、小さく微笑む。
「ひとつも知らなかったわけではないぞ。ただ全部先に言われてしまっただけだ」
「お前にボールが行った時、五つ目だったじゃねえか!」
「一年以上東京に居るのに二十三区すらまともに覚えてない俺が、千葉県の市町村をそんなに知っているわけがないだろう」
 正論である。
 だが正論と言うものは、頭を納得させる力は充分にあっても、心の方を納得させる力が弱いのが世の常だ。
 しかし桔平は、黒羽に納得させるための切り札を持っていた。
「だいたい福島を九州だと思っているような奴に言われる筋合いはない」
 桔平がさっそく切り札を発動させると、黒羽は息を飲み、桔平から目を反らしながら頭を掻く。想像以上の効果があった。
「あ、れは、お前、名前を間違えただけで……福島と福岡どっちが九州だかとか、混乱するだろ、普通」
 いや。普通、しないだろう。
 しどろもどろになりながら、無理な言い訳をする黒羽の態度がおかしくて、桔平はついつい吹き出してしまった。
「てめっ、笑ったな!」
「す、すまん」
「だいたい名前かぶりすぎなんだよな、九州は! 佐賀と滋賀とかよ!」
 僅かに頬を染めながら、九州への文句をまくしたてる黒羽が、照れ隠しをしているのは明らかで、その様子が見ている方の笑いを余計に誘うのだと、おそらく本人は自覚していないのだろう。
 黒羽に嘘知識ばかりを次々植え込む佐伯の気持ちが、桔平は少し理解できた。この男の反応はほのかに可愛らしく、だからこそおもしろすぎる。普段見せる頼もしさが嘘のようだ。
「まあ、とにかく、お互い様って事で許せ!」
「そうだな」
「俺、今度会う時までに九州の県全部覚えてくるからよ、お前も千葉県の市町村、全部覚えろよ」
「待て。それはいくらなんでも不公平だろう」
「やっぱそうか? じゃあどうするかなあ……」
 黒羽は腕を組み、目を伏せ、深く考え込む。
 そんなに真面目に考え込む事ではなかろう、と思わない事もないが、どんな問題にでも全力で取りかかる事こそが、黒羽の長所であるのだから。
 橘も付き合って、考え込んでみる事にした。

 紅茶葉の専門店までは、往復で十分そこそこであるのだが、何を買おうか目移りしているうちに、少々時間を食ってしまった。
 ふたりとも、待ちくたびれてるかしら。
 怒られはしないだろうが、呆れられる事を覚悟し、杏は慌てて家に飛び込む。
「ただいまー」
 ドアを開けると同時に言ってみたが、家に居る時はいつもきちんと「おかえり」と返してくれる兄の声が無い。
 杏は首を傾げながら、電気がついたままのリビングを覗いた。
「あら」
 数秒、驚いて立ち尽くす。
 たまらず微笑むと同時に、呆れてため息を吐く。
 杏の視線の先にあるのは、ソファにもたれて大口を開けて眠る黒羽と、その黒羽にもたれて静かに寝息を立てる桔平。
「あんまり見せつけないで欲しいんだけど」
 杏は小さく呟くと、台所ではなく、ふたりにかける毛布を取りに部屋へと向かった。


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