ランチタイム

 黒羽の腹が豪快に鳴り響いたのは、内村・森ペアとのしりとりテニスが終了した直後の事。時計の針がちょうど十二時を指した頃だった。
「完璧だな、お前の腹時計は」
 呆れのため息を交えて橘が呟くと、
「だろ? これ、ちょっと自慢なんだよ」
 黒羽は白い歯を見せながら嬉しそうに笑う。
 そんな黒羽を見て、「それはもうすぐ高校生になろうと言う男が自慢する事ではないだろう」と心の奥でツッコミを入れた者も居れば、「すげーや、黒羽さん!」と尊敬の念を抱いた者も居る。
 心の動きはそれぞれ違えど、とりあえず、黒羽が注目を浴びたのは間違いなかった。
「あー、腹減った。メシ食おうぜ、メシ!」
 しかし黒羽と言えば、視線が自分に集まった事など気付く事なく、腹を押さえて欲求を訴えるのみだ。
 まあ、腹が減った事に間違いはないからな。
 橘は微笑み、後輩たちに振り返った。
「さあ、みんな、一旦休憩して腹ごしらえだ」
『はい!』
「この辺りにはどんな店があったかな。確か一番近いのは――」
 橘が、どこぞのファーストフード店の名前を上げようとした瞬間。
「え?」
 黒羽が放つ驚愕の声に、声を遮られた。
 一体、今の言葉のどこに驚くところがあったと言うのか。
「どうした黒羽。何を驚く事がある」
「いや、だって……お前、弁当とか作ってねえの?」
「は?」
 今度は橘が驚く番だ。
「いつ、作ったと言うんだ……?」
 橘が知る限り、橘と黒羽はほぼ同じ時間に目覚め、このテニスコートに来るまでの時間のほとんどを一緒に過ごしていた。
 だから今朝、橘が台所に足を踏み入れたの時間がほんの数分しかない事を黒羽は知っているはずである。
「……だな」
「だろう?」
「うわー!」
 黒羽は突然唸ったかと思うと、頭を抱えてうずくまった。
「すげーショック。俺、朝から弁当めちゃくちゃ楽しみにしてたんだぜ……!」
 子供か、お前は。
 橘は反射的に口にしようとした言葉を飲み込んで、周りを見渡してみる。後輩たちも、だれひとり口にはしないが、橘と同じ事を思っているのは間違いなかった。
「無いもんはしょうがねえか。よーし、じゃあ、神尾!」
「は、はい!」
 先ほどまでの落ち込みはどこに消えたのか。
 勢いよく立ち上がった黒羽は、神尾を名指しした。
「あれ? 橘。一番近い店がどこだって?」
「ファーストフード店だが」
「じゃ、そこでいいや。行き方は?」
「その道を出て、左に真っ直ぐ行って二つ目の十字路を左に曲がると大通りに出る。大通り沿いの右手にあるはずだが」
「よし。じゃあ神尾、勝負しようぜ! こっからその店まで走ってて、勝った方が奢る!」
 黒羽の発言に、一同がざわめきたつ。
 神尾が不動峰のスピードエースである事は、黒羽も知っているはずである。その神尾に、よりにもよって足で勝負を挑むなどと。
 今までのプレイを見ている限り、確かにフットワークは軽そうだが……。
「いいんすか? 黒羽さん、サイフの中身、余裕あるんですか?」
「もう勝利宣言か。すげえ自信だな、さすがスピードエース」
「なんならハンデつけてもいいッスよ」
 神尾は得意げににやりと笑う。
「いらねぇよ、と言ってみたいもんだが、無理そうだな。よし、じゃ、お前そっからスタートな。用意、スタート!」
「う、うぇ!?」
 油断も隙もないヤツだ、と誰もがその時思った。
 黒羽と神尾のスタート位置は、わずか数メートルの差しか無かったが、スタートと同時に走りはじめた黒羽に対し、スタートに戸惑った神尾とでは、出だしに数秒の差が生じている。
「リズムに乗るぜ!」
 手にしていたラケットを、すぐ隣に居た石田に押し付け、神尾は黒羽の背中を追った。
 残された六人は、二人の背中をしばらく見守り、それから顔を見合わせ、
「……俺たちはゆっくり行くか」
「そうですね」
 六人揃って、ゆっくりと歩き出した。

 勝負をしかけてくるだけあって、黒羽はなかなか足が早い。
 神尾はしばらく、黒羽の背中を見続ける事になった。
 なかなか新鮮な経験だ。この程度のハンデでは、相手が不動峰のメンバーだったら、とうに抜かしているだろう。
 だが、まだまだ。
「リズムを上げるぜ!」
 一つ目の十字路を越え、二つ目の十字路を目前にした頃、神尾は黒羽を捕らえていた。左に方向転換するその時、アウトコースから黒羽を抜き去る。
 大通りは目前。
 右手に目をやれば、二階建てのファーストフード店の看板が見えた。
 よし、昼飯は貰ったぜ!
 神尾はラストスパートをかけ、大通りに飛び出す。
「ぅわ!」
「きゃっ」
 飛び出した瞬間、神尾の目の前に現れたのは親子連れだった。
 神尾は反射的に進む方向を変え、なんとかすれ違い、衝突を免れる。
「す、すみません!」
 足を止め、謝りながら振り返えった神尾の目に飛び込んで来たのは、ふわふわと揺れる、赤。
「あー!」
 神尾がそれを風船だと認識できたのは、子供の叫び声が耳に届いた時だった。
 母親と出かけた先でもらっただろう風船を、突然神尾が飛び出してきた事で驚いて、手放してしまったのだ。
 子供にとって風船は(しかもヘリウムガス入りは)宝物も同然である。
 今にも泣きそうな子供に慌てて、風船に手を伸ばすが、神尾の手には届かない。
「くそっ」
 その時、影が、神尾の視界を被った。
 神尾の後ろを走っていた、神尾より身長が二十センチほど高く、腕が長く、ジャンプ力のある男の影。
「よっ、と」
 黒羽は飛び立とうとする風船を易々と捕らえ、子供の前に着地する。
 見る者を安心させる、頼もしい笑みを浮かべながら。
「ほら、これ、お前のだろ?」
 子供はしばし呆然としていたが、黒羽が風船を手渡すと我に返り、力強く肯いた。
「うん!」
「大事なモンなんだから、もう手放すんじゃねーぞ」
「ありがとう、おにーちゃん!」
「ありがとうございます」
 礼を言いながら、笑顔で立ち去る親子に手を振る黒羽。
 その光景を見つめながら、さすが「子守りのバネさん」だなあと、神尾はぼんやりと思った。
「何ぼーぜんとしてんだ、神尾?」
 黒羽は神尾の後頭部を軽く叩いて、神尾の横を通り過ぎていく。
 その背中を眺め、背中に向けて、神尾は叫んだ。
「あ……ありがとうございます、黒羽さん!」
「気にすんなって。大したことじゃねーし、それに」
 神尾より数歩進んだ所で黒羽は足を止め、振り返る。
「昼飯、お前の奢りだからな」
「……!」
 豪快に笑う黒羽。
 やられた、と神尾は思った。
 店の直前で神尾が足を止めている隙に、黒羽はしっかりと、店の入り口の前に立っていたのだ。
「俺の負けだから、しょーがないッスね」
 なんとなく、騙されたような気もする、そんな負け方であったけど。
 負けた事に悔いはないと思えたので、神尾は潔く負けを認めた。

「で、黒羽さん、何食べます?」
「あー、じゃあとりあえず、コレ。飲みもんはコーラな」
 神尾は黒羽の指示どおり注文をしつつ、寂しいサイフの中身を思って、自分は何を注文しようか悩んだ。
 空腹を訴える腹を思うと、何も食べないわけにはいかないが、懐に余裕は無い。
 一番安いセットにしようかなあ、などと考えていると。
「お前は――」
「神尾は、何が食いたいんだ?」
 風船騒動で足を止めていた間にだいぶ追いついていたのだろう、橘がふたりの後ろに立っていた。
「橘さん!」
 橘の浮かべる笑みが、神尾を見下ろすまなざしが優しい。
 神尾はなんだか嬉しくなって、少しだけリズムが上がる。
「謝罪と礼をきちんと言えた褒美に、お前の昼飯は俺が奢ってやる。何がいい?」
「え……?」
「早く言え。後ろがつかえているから」
「え、えっと、いいんですか?」
「遠慮するな」
「じゃあ、テリヤキバーガーのセットで、コーンポタージュスープを!」
「よし、判った」
 神尾に言われた通りに手早く注文する橘。
 やっぱり橘さんは、優しい人だなあ。
 でもあれ、見てたんだ、恥ずかしいなあ。
 神尾はひとり、勝手に照れていた。
「なんだよ橘、さっきの見てたのかよ」
「ああ、見たぞ。『子守りのバネさん』の格好良いヒーローぶりもな」
 橘の発言に、一瞬目を見開いてから、
「ちっ」
 不満そうに舌打ちする黒羽。
 しかし表情は、微妙に照れつつ、妙に嬉しそうだった。
「じゃあ俺は、後輩想いのお前に奢ってやるよ。好きなもん言え」
「……それでは何の意味も無いだろう」
「意味なんざどうでもいいんだよ」
 照れをごまかすためか、吐き捨てるように黒羽は言う。
「では遠慮無く奢られようか」
 橘は笑いをかみ殺しながら答えた。


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