おそらくはそうなるだろうと、予想をしていなかったわけではない。 しかし一応黒羽は遠方からの客人で、客人の前なのだから少しくらいは遠慮するのではないかと、橘は少しだけ期待していたのだ。 が。 「橘さんたちと打つのは俺たちが先だ!」 「いーや、俺たちだっつーの!」 期待するだけ無駄だった。 一触即発とは、まさにこの事。 あたりにピリピリとした攻撃的な空気を漂わせ、ラケットを片手に、睨み合う神尾と内村。 「やはりか」と誰に聞かせるでもなくこぼした橘は、目を伏せて頭を抱える。 橘の隣に座っている黒羽は、神尾と内村の行末を見守りつつも、喧嘩のひとつもはじまらないかと期待しているのは間違いなかった。いざその時がきたら、彼が制止の役割を担う事はないだろう。良くて騒ぎ立てる、最悪の場合、ふたりに混ざりかねない。 その点では、石田や桜井の方がよっぽど大人なのかもしれない。 「時間もったいないし、打つか? 石田」 「そうだな」 神尾と内村のせいで未だ誰にも使われていないコートに入り、ふたりきりで打ちあっている様子を見ながら、橘は心底そう思った。 「あのさ、もうやめなよふたりとも。そんな事で喧嘩しても意味ないし……」 「うるせえ!」 「森は黙ってろ!」 森は、神尾と内村の間で視線を泳がせながらおろおろしている。黒羽とはまったく逆の反応だ。心の中では、「なんで黒羽さん、あんなに楽しそうにしてるんだろう」と黒羽の人間性を疑っている可能性は高く、森が黒羽に心底懐く日はちゃんとくるのだろうかと、橘は少しだけ心配になる。 ふたりのちょうど中間地点に立っていると思われる橘には、どちらの気持ちも判るのだが。 「橘さん」 それまで、森の隣で神尾と内村を睨みつけながら、延々とぼやき続けていた伊武は、ふいに橘に振り返った。 「ああ……別に黒羽さんでもいいんですけど……」 「おい。『でもいい』ってなんだよ。失礼なやつだな」 黒羽は口調こそ不機嫌そうだが、表情は朗らかな笑みを保っている。伊武に悪意がない事を理解しているようだ。 「あつらが言い争っている間、時間もったいないと思いませんか……?」 「ああ、そうだな」 「確かに」 黒羽は大げさに頷く。 「あんなに楽しそうにふたりの言い争いを見ていたのはどこのどいつだ?」 「それはそれ、これはこれだろ! なんか石田や桜井見てたら、あいつら時間を有意義に使ってるなって思いはじめたんだ!」 「……確かにな」 どちらからともなく、視線を石田と桜井に向ける。 彼らも黒羽や橘と打ち合いたいと思いながらここに来たはずで、本来の目的を果たせていないのだが、それでも黙って神尾と内村を待っている自分たちよりよほど楽しそうだった。 「じゃあちょうどいいですね……」 伊武の声に、ふたりは視線を元通り、伊武に戻す。 「コートはもう一面ありますし……ダブルス専用のコートってわけでもありませんし……あいつらの話し合いが片付くまで、シングルスで打ち合いましょうよ」 『てめー深司抜け駆けすんじゃねー!』 あれだけ大声でどなりあい、睨み合い、まるでこの世に互いしか居ないと思わせるほど、世界を作っていたくせに。 意外に耳ざといのだなと、橘は呆れるより前に感心してしまった。 「あのさあ、そうやってふたりして俺を責めるけどさあ、橘さんや俺や黒羽さんが、ああ、あと森もだね、こうして退屈してるのは誰のせいだと思ってるのさ……お前たちのせいだろ……? それなのになんで俺が責められないといけないのかなぁ? 世の中不条理だと思わない? あ、不条理って意味判る? 判るわけないか……神尾と内村だしね……」 「深司」 「これ以上は時間の無駄だよね……さっさとくじ引きで順番決めようよ。それならみんな文句ないだろ……?」 伊武がどこからともなく取り出したくじ引きに、全員(石田と桜井も、打ち合うのを止めて)が注目する。 そんなものを用意してあったのなら、はじめから出せよ、深司。 と、ツッコミたかったのは橘だけではあるまい。 「しょうがねえな。そのくじ引き勝負、うけてやるぜ!」 再び燃え上がる神尾と内村。 そして。 橘と黒羽に対するは、神尾と伊武のペアだった。 「深司。いつものサーブ、本気で決めてやれ」 橘の指示に、伊武が頷く。 「もちろんですよ。容赦しません」 「おいこら橘! お前、どっちの味方だ!」 「お前のだ。同じコートに居るだろうが」 「判ってんなら試合相手にアドバイスすんなっつーの!」 黒羽と橘のやりとりを無視するように、二、三度、伊武がボールを跳ねさせた。 その音を聞いて、レシーバーである黒羽の顔付きが変わる。愛用のウッドラケットを握るその手に力がこもったように見えたのは、橘の気のせいではあるまい。 本気だ。 黒羽も、伊武も、もちろん神尾や自分も。 「でもよー、いくらなんでもできすぎじゃねーか? くじ作った深司が、最初に試合できるなんてよー」 緊迫した空気の流れを遮るように紡がれた、内村の呟き。 それはしっかり伊武の耳に届いていた。 「自分が試合できないからって、わざわざくじつくって来てあげた俺をイカサマ師扱いするなんて、ほんと最悪だよね……だったら自分で作ってこいって感じだよ……」 「そうだよ内村、いくらなんでも言い過ぎだよ。確率は三分の一だったんだしさ」 伊武は、慌ててフォローを入れる森に感謝する様子もなく平然と最初のサーブを放ち、 「そのくらいの特典でもなきゃ、俺がそんな面倒な事わ、ざわざするわけないだろ……」 髪をサラリとなびかせながら、無表情でぼやいた。 「ホントにイカサマかよ! ずっけえぞ深司! やりなおしだ!」 内村の正当な訴えが、コート中に響き渡る。 しかし残念ながら、すでにはじまっている試合を止めるだけの効力はなかった。 |