桜井は困っていた。 約十四年半の人生の中には、辛かった事も悲しかった事もそれなりにあったはずなのだが、今この時ほどくだらない事で困った経験はなく、目を細め、生暖かい視線で目の前に広がる光景を眺める。 いつもケンカばかりの神尾と内村は、タッグを組んでどうやって黒羽のふいを突こうか頭を悩ませている。もちろん、黒羽に危害を加えたいからではなく、そうやって黒羽とのコミュニケーションをはかろうとしているのだ。 当の黒羽は何をしているかと言うと、石田や杏を交えて、穏やかに橘と歓談を交わしてる。 石田が何やら申し訳なさそうに、ちらちらと桜井を見ているのは、気のせいではないだろう。桜井は「この裏切り者!」とばかりに石田を睨みつけ、視線を反らす。 橘を挟んで向こうに居る伊武はずっと黙っていたが、穏やかな雰囲気に溶け込んで、会話に耳を傾けている様子だ。 深司でさえこれなのに、なんで俺が輪から外れてるんだよ。 と、桜井は、心の中でツッコミを入れた。誰にこの不満を述べて良いか判らなかったので、とりあえず心の中にとどめておいた。 そもそも、そう、そもそも、桜井ははじめから、黒羽にさほど敵意を抱いてなどいなかったのだ。 いきなり橘家で我が物顔で振舞う姿を少々不快に思ったのは事実だが、本当に少々である。 他の仲間たちは、桔平と親しげにする黒羽を、大なり小なり不満に思っていたようだが、桜井の中にその感情はほとんど湧き上がっていなかった。「そりゃ、橘さんにだって親しい同い年の友達のひとりやふたり、居て当然だろ。しょうがないよ。まあ、それが六角中の生徒だってのは、ビックリしたけど」と言うのが、桜井の率直な感想で、当初「反黒羽」の意思を見せていたのは99%、仲間たちにつられての事だったのだ。 ところが現状はどうだろう。 初っ端からあからさまに反黒羽勢力を築いていた内村と神尾はあっさりと黒羽に懐き、伊武も心を許し、石田も自然と打ち解けている。 ……やばい。俺、完全に取り残されてる。 と、桜井は思った。 思ったと同時に、自分を置いていった仲間たちの恨みが少しだけ沸き上がる(取り残された桜井を多少なりとも気遣っている石田はまあ許せるとしても)。 一瞬、黒羽に対する悪意などもう微塵も抱いていないのだから、当初の事など何事もなかったように、この歓談の輪の中に入ってしまえばいいのかもしれないとも考えた。幸いな事に桜井は、それが許されるキャラクターであるし、それがしやすい席についているし、黒羽は細かい事を気にするような男でもなさそうだ。 だが、さすがに突然の手のひら返しはちょっと気まずい。と言うか、みっともない。カッコ悪い。 そんなわけで桜井は、肩身の狭い思いをしながら、じっと辺りをうかがっていた。 「え! お前、塩派なのか!?」 考え事に耽っていた桜井は、黒羽の驚愕の声に、はっと顔を上げる。 「え? 駄目ですか、塩。さっぱりしてて、おいしいじゃないですか。ねえ?」 石田は同意を求めるように、隣に座る杏を見下ろしたが、杏は即座に左右に首を振った。 「何言ってるの、石田さん! ラーメンはとんこつに決まってるじゃない。ねえ、お兄ちゃん!」 「当然だ」 そこでようやく、四人の話題がラーメンである事を桜井は悟る。 なんでクリスマスにわざわざ、真面目な顔してラーメンについて語り合っているんだろうと思いつつも、とんこつラーメン好きな桜井は、心の中でひっそりと橘兄妹を応援していた。 「とんこつかあ。だったら俺、味噌の方が好きかもなあ」 「だあ、お前ら、判ってねえよ! 塩でもとんこつでも味噌でもねえ! やっぱりラーメンは醤油なんだよ! そこが原点なんだよ!」 ラーメンの原点って、醤油だったか? と首を傾げる桜井。 とんこつラーメンは好きだったが、ラーメンの起源まで考えた事はなかった。今度調べてみるのもおもしろいかもしれない。 「ちょっと黒羽さん、それ、聞き捨てならないわ! 東京のエセとんこつしか食べた事ないのに、とんこつを語らないで!」 「本場のは美味いってか?」 「まあそうだな。東京にきてからいくつかの店でとんこつを食べたが、九州時代に食べたものとは比べものにならん。こっちで育てば、嫌でも醤油派や塩派にならざるをえないだろうな」 橘さんまでそんな、ムキになってラーメン語りしなくても。 そう言おうとした桜井は、言葉を飲み込んだ。 相手が黒羽だから、かもしれない。 友達だから、なのかもしれない。 いつもどこか一本線を引いたような、格好良い桔平しか見た事のない桜井にとって、真正面からくだらない本音をぶつけ合う年相応(?)の桔平は、とても貴重なものだった。 そんな桔平をあらわにできる黒羽の力は、本当に凄いと素直に思える。 「そうかあ? 信じられねえな……」 自分がこの輪の中に足を踏み入れられないのは、みっともないとかカッコ悪いとか言って、意地や見栄を張っているせいなのだと、桜井は気付いていた。 ならば、黒羽に敬意を表して。 その意地や見栄を捨ててみたい、気がする。 「……俺も、とんこつ派ですよ」 「え!? マジでか!?」 勇気を出してみれば、黒羽は何事もなかったように、それが当たり前のように自然に、桜井を輪の中に引き込んでくれた。 ほら、やっぱりだ。 肩身が狭い思いをしているのは、すべて桜井ひとりの責任で、この人はこうしていつだって、自分たちを受け止めてくれるのだ。 引き込まれた輪の中は、温かくて優しい。 どうしてもっと早く、この中に入らなかったのだろう。 本当に馬鹿だったなあと、今日の自分を反省しながら、桜井は小さく笑った。 「橘さん、東京にだって美味しいとんこつラーメンの店、ありますよ。路地裏に隠れた名店ってやつです」 「そうなのか?」 「はい。今度案内しますよ……黒羽さんも一緒に。明日テニスするんでしたら、その帰りとか、どうですか?」 ちらりと石田を見てみれば、ちょうど石田もこちらを見ていて、嬉しそうに微笑みながら頷いていた。 次に覗き込むように、上目使いで、桜井は黒羽を見上げる。 「おう、頼んだぜ!」 黒羽は豪快に笑いながら、大きな手を桜井の頭の上に置いた。 【残り1人】 |