前衛キラー

 終業式である十二月二十五日は、不動峰中テニス部二年一同にとって、とても嬉しい日。
 明日から冬休みだから、ではない(それもかなり嬉しい事ではあるけれど)。
 終業式恒例の長い長い校長の話も、ホームルームでの担任の長話も、音楽と体育の成績以外がもはや笑うしかないほどに酷い事実も、ちっとも気にならないほどに、神尾の心は浮かれていた。
 ホームルームが終わるや否や、神尾は杏の所属するクラスに向けてリズムを上げる。
 どうやら杏のクラスは神尾のクラスよりも少し早く終わっていたようで、生徒の姿はまばらだった。
「杏ちゃん!」
 教室の入口から神尾が呼ぶと、杏は荷物を鞄にしまう動作を途中で止めて振り返る。
「アキラくん。どうしたの? これから少し部活するんじゃないの?」
「ああ、そうなんだけど、何か夢みたいでちょっと不安だったから、確認しとこうと思って!」
 神尾が声を上ずらせながらそう言うと、杏は小さく笑う。
「もう、アキラくんてば大げさ。ウチでみんなでクリスマスパーティーしようって、それだけの事じゃない」
「いや、それがもう、夢みたいだから!」
 本当に、夢のようだった。
 クリスマスと言う大切な日を、最も尊敬する先輩と、憧れの女の子と、一緒に過ごせるなんて。しかも先輩である桔平は、この時期受験で忙しいだろうに。
「夢なんかじゃないよ。兄さんも久しぶりにはりきって料理作るみたいだし、私もケーキつくるの手伝おうと思ってる。ツリーの飾り付けは、一昨日すっごい気合入れてやっといたし。今日の五時、絶対遅れないで来てね」
「うん!」
 神尾は力強く頷く。
 絶対に遅れるはずがない。気分的には、今すぐ橘家に突入したいくらいなのだから。
「じゃ、俺部活行くわ」
「うん、頑張って――って、そうだ、アキラくん!」
 くるりと方向転換をした神尾の制服の裾を、杏は突然掴む。
 突然引き止められ、バランスを崩しかけた神尾は、しかしなんとか転ばないよう、腕と足で体を支える。
「ごめんね、言い忘れてたこと思い出して。あのね、今日のクリスマスパーティー、お兄ちゃんの友達がひとり参加するんだって」
「橘さんの友達?」
「うん、お兄ちゃんってばうっかりしてて、ブッキングしちゃったんだって。いいかな?」
 いいかな? と言う問いは、非常に微妙なモノであった。「橘さんの友達」を、どんな人物だか知らないのだから。
 だが、ここで「いやだ」と言ってしまったら、「じゃあ三人でパーティーするわ、ごめんね」などと言われるのではないかと言う恐怖もあり、
「……うん」
 神尾は無意識に、肯定で答えていた。

「橘さんの友達って、どんな人なんだろう」
 部活を早めに切り上げて、家に戻って支度して、プレゼントやら橘家へのお土産やらを手に、不動峰中テニス部二年一同は六人まとまって橘家へ向かう。
 待ち合わせ場所から橘家までの五分間、話題は「橘さんの友達」で持ち切りだった。
「なんか、橘さんってプライベートの匂い、あんまりしないからなあ」
「うちの学校の先輩かな?」
「クラスメイトとか?」
「九州時代の知り合いかもしれねーぜ?」
「ああ、遠路はるばるやってきてるんだ。それじゃあ、仲良くしないとな」
「男とは限らないんじゃないの?」
 伊武の発言は静かだったが、しかし他の五人の耳にはっきりと届く。
 他人の意見を模索するように視線を絡ませ、しばしの沈黙。やがて視線は、すべてが伊武の元に集まる。
「腐ってもクリスマスだからね、今日。そう言えばここ数ヶ月、橘さんよく千葉の方に遊びに行ってたしね……その人が来てるんじゃないの、今日」
「え、そ、そうなのか?」
「やっぱり、彼女なのかな」
「泊まりあったりするって事は、家族ぐるみのお付き合いなのかあ。結婚するのか?」
「橘さんが十八になるまで、あと三年あるから、それまではしないだろ?」
 どうして突然結婚まで話が飛ぶのか。
 しかも、別に結婚しようがしまいが、今日のパーティーには関係ないだろう。
 と、桜井は心底思ったのだが、ツッコんでも無駄だろうと思い、放置する事にした。
 大体まだ、「橘さんの友達」がどんな人物であるか判っていないのだから、論じるだけ無駄なのだ。

 初めて訪ねるわけではないけれど、いつ訪ねても緊張感と昂揚感を与えてくれる橘家を目の前に、六人は数秒立ち尽す。
 六人の中で最も早く正常状態に戻った桜井が、手を伸ばしてインターホンを押す。
 桔平か、それとも杏だろうか。ドアを開けて、「いらっしゃい」と六人を向かえてくれるだろう。
「はいよ」
 そんな六人の期待は、いとも簡単に裏切られる。
 ガチャリとドアを開いた男は、桔平ではなかった(もちろん杏でもない)。
「え……?」
 なんとなく見覚えのある顔。
 しかし神尾と内村は、それ以上の事は判らなかった。
 石田は、夏に不動峰中に顔を出したふたりのうちのツッコミの方だな、と言う事まで思い出せた。
 伊武と森は、六角中テニス部のレギュラーメンバーである事も思い出せていた。
 つまり、彼が黒羽と言う名前である事までしっかり思い出せたのは、桜井だけである。
「お、お前ら来たのか! まあ上がれ上がれ」
 上がれと言われても、ここはあんたの家じゃないだろう。
 単純に疑問として思ったか、不満として思ったかはそれぞれだが、とりあえず六人は全員即座にそう思った。
「おい橘、後輩たち来たぜ。料理の準備終わってんのか?」
「すまん、もう少しだ。とりあえず上がってもらって……部屋まで案内してやってくれくれるか」
「ああ、それは判ってるけどよ、なんなら手伝うか?」
「お前の手伝いは邪魔にしかならんから遠慮する」
「……どーゆ意味だよ、橘サン」
「ははっ、そのままの意味だ」
「けっ」
 黒羽が我が物顔で橘家に居るだけで不愉快に思う者も居るのだから、台所に居るだろう桔平との談笑を耳にして、六人が面白いわけもない。
 大なり小なり、六人の心の中になんとなく沸き上がった不満は、だからと言って敬愛する先輩に一ミリたりとも向けられるわけがないので、すべてが黒羽に向けられる。
「お邪魔します」
 精一杯の鋭い目つきで黒羽の背中を睨みつけながら、神尾は最初に靴を脱ぐ。文句のひとつやふたつ、つける気満々だ。
 しかし、続いて上がった内村が、神尾の肩を掴んで引き止めた。
「止めるなよ、内村!」
 内村に振り返り、神尾が鋭く言い放つ。
 いつもならば喧嘩がはじまってしかるべき状況だが、今日の内村はニヤリと笑うだけで神尾をいなした。
「まあ待てよアキラ。ここは俺の真骨頂、見せてやる」
「……そうか。任せたぜ!」
 ずんずんと通路を進む内村の、小さいながらに頼もしい背中を見つめながら、とりあえず内村の真骨頂とやらを見学してみようと、四人は玄関近くから内村を見守り――内村が動いたのは、本当に突然だった。
「俺が前衛キラーと呼ばれるわけを教えてやるよ!」
 そう叫んだかと思うと、内村は黒羽の背中に向けて、いきなり飛び蹴りをかましたのである。
『内村!』
 いやいくらなんでもそれはないだろう、大体黒羽さんは後衛だ、などなど、五人の心の中に色んな言葉が渦巻いたが、口を付いたのは突然の暴挙に出た仲間の名前だけ。
 五人が息を飲んで見守る中、不意打ちの飛び蹴りを食らうはずであった黒羽は、紙一重で避けながら振り返り、迫る内村の足をがっしと掴む。
「……なっ」
 黒羽は、頭から床に落ちかけた内村の体をひょいと抱え上げると、体勢を整えてから立たせてやる。
 それから床に落ちた帽子を拾い上げ、内村の頭にぽん、と軽く乗せ、にやりと笑った。
「今の蹴り、なかなかのモンだったが、蹴りの達人であるバネさんに当てるにはまだまだ甘いぜ?」
「……」
 内村は、細い両目を見開いて、黒羽の顔を真っ直ぐ見つめる。
「そうだな、もうちっと柔軟性が必要だな。足を上げる角度が足りねえ」
「……なるほど」
「もっと高く飛ぶために筋力もあった方がいいぜ。威力も増すしな。でも、あんまりつけすぎると今度は体が重くなってまた飛べなくなっから、その辺のバランスは上手くとってな」
「へえ」
「あと、不意打ちすんのに叫ぶのはナシだろ。避けてくれって言ってるようなもんだ」
「確かに」
 そこからしばらくの間、五人が見守る中で、講師黒羽による飛び蹴り講座が続く。
 唯一の生徒である内村は、初めこそ拒絶の空気を漂わせていたものの、いつのまにやら黒羽の話に聞き入り、しまいには自ら質問を投げかけるようになっていた。
 そんな飛び蹴り講座が終わったのは。
「お前たち、いつまでそんなところに居るんだ?」
『橘さん!』
 料理の準備が終わった桔平が、部屋にも行かずに通路に居る一向にに声をかけた時。
「黒羽。こいつらを部屋まで連れていってやってくれと頼んだだろう?」
「スマン、ついつい話に夢中になっちまってな。こんな話に付き合ってくれるヤツ、滅多に居ねえから」
「……まったく。そんなに暇なら料理を運ぶのを手伝え。お前らは先に部屋に行ってていいぞ。場所は判るよな?」
「あ……はい」
 桔平と黒羽が、台所に消えて行く。
 ひとりぽつんと立っていた内村は、とぼとぼと仲間たちの元へ戻ってくる。
 何やら気まずそうに顔を伏せ、片手で帽子を弄くりながら、
「あいつ……けっこう、いいヤツだったぜ」
 そう、小さく呟いたのだった。

【残り5人】


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