プレゼント

 昨晩電話で誘われた時から、それは疑問に思っていた事なのだが、まあ何とかなるだろうとあまり気にせず、橘は千葉までやってきたのだ。
「ところでお前、明日どうする?」
 だから風呂上りにくつろぎながら、黒羽にそう問われても、返答に慌てる事は無い。
 もっとも、適切な返答が考え付いていたわけではないので、沈黙を呼び込む事になったのだが。
「……どうするべきかな」
 あまりに沈黙が長かったので妙に気まずくなり、橘は問い返す。
「うーん、別に俺は一日くらい学校サボってもいいんだけどよ」
「健康体なら真面目に学校にいけ」
「って言われるって判ってっから、明日どうするかって聞いたんだろ、俺は」
 黒羽が勝ち誇ったようにニヤリと笑うので、橘は何も言えず、肩を竦めた。
 はじめから判っていたのだ。都民の日が休みなのは、都内の学校に通っている橘ひとりだけで、黒羽や天根をはじめとする六角中のメンバーは、学校に行かなければならないと。佐伯の誕生祝とやらは、おそらく学校が終わってからの話であろう。
「んー、じゃあとりあえず、お前も朝練来てみるか?」
 名案だとばかりに黒羽は言うが、橘は首を傾げるしかない。
「朝練?」
「ああ。朝の六角中テニス部の部活風景を見に」
「……お前はもう引退しているはずだろう?」
「六角中のテニスコートは近所のガキどもまで遊びに来るんだぜ。学生が遊びに行って何が悪いんだよ」
「ふむ……」
 そう言われてしまうと納得せざるを得ない……ような気がする。
 なんとなく腑に落ちないものを感じつつも、橘は翌日、黒羽が六時にセットした目覚まし時計の音で起きる事となった。

「バネさん、今朝も来たんだ! 受験勉強しなくていいの? まあバネさんには橘さんの後輩ってのもお似合いかもね! あはは!」
 朝から笑顔で喧嘩を売る一年生部長の頭を、力を込めてグリグリ撫でぐりまわしながら、黒羽はひきつった笑顔を浮かべる。
「やあバネ。今朝は同伴出勤?」
 次に黒羽は、ひきつった笑みをキープしたまま振り返り、朝から爽やかにとんでもない事を言う同級生の頬をつねる。
 六角中はいつも仲がいいが、そのテンションは朝も変わらないようだ。
 微笑ましさに、橘はクスリと笑った。
「橘さんも来た……」
 そんな橘のそばに、静かに歩み寄ってくるのは天根だ。
「よう。おはよう」
「おはよう。橘さんも打つ? 俺橘さんと打ちたい」
「ラケットがないから無理だな」
「ラケットなら、貸すけど」
 純然たる厚意なのだろう、天根はにっこり笑いながら、愛用のラケットを橘の前に差し出してきたが。
 これは、いくらなんでも無理だろう。
 ウッドラケットを使った事すらないと言うのに、加えて常軌を逸した長さである天根のラケットを使いこなせる自信が無く、橘は「すまん、結構だ」と遠慮した。
 心もち背中を丸めて、寂しそうに立ち去っていく天根の姿があまりに哀れで、どうしたものかと考え込む。
「使い慣れないのは同じだろうけど」
「佐伯?」
「俺のはまだ常識的なサイズだから、橘ならすぐに使いこなせるんじゃないかと思うよ」
 この佐伯虎次郎と言う男の笑みが、爽やかであれば爽やかであるほど、何か企んでいるように思えるのは偏見であろうか。
 と思いつつも、久しぶりに思い切りテニスができると言うのなら、それは橘にとって嬉しい事に違いない。
「すまんが、借りよう」
「そうこないとね。で、コートはこっちで」
 橘はラケットを受け取った瞬間に、佐伯に背中を押される。
 突然の事によろけ、二、三歩進んだ橘は、一番手前にあったコートの中に足を踏み入れた。
 顔を上げ、体勢を整える。
 ネットの向こうに居るのは――。
「どーゆー事だ、サエ」
「ふたり、まともに打ち合った事ないって聞いたからさ。引退済の三年に、貴重な朝の練習時間中、コート一面貸してくれるなんて、二日遅れの誕生祝いにしては粋な計らいだと思わないか? バネ」
「……そーゆー事かい」
 呆けていた黒羽の表情が、変わる。
 口元には笑みが浮かんでいるものの、視線の厳しさは、戦いを前にした真剣なものだ。
「よし、いっちょやるか、橘」
「そうだな。ここまでお膳立てしてもらっては、引くわけにもいくまい」
 黒羽に負けないだけの強い視線を叩き返す。
 意識は一瞬静まり、次第にゆっくりと、試合に向けて燃え上がる。
「初めてのウッドラケットに、初めてのコート、微妙に動きにくい普段着。ここまでハンデついて、あっさり負けたらすごいよ、バネさん!」
「ものすっげえやる気のでる応援ありがとよ、剣太郎」
 黒羽は一瞬だけ橘から視線を反らし葵に向けたが、すぐに再び、橘を真っ直ぐ見据える。
「負けねえぜ?」
「それはこちらの台詞だ」
 昇ったばかりの眩しい朝日の中、ふたりはネットを挟んで向かい合う。
 この熱さを、興奮を、味わったのは久しぶりだ。
 忘れられない、すぐにでも思い出せるこの感覚に、どれほど焦がれていたかを気付かされる。
「久しぶりに楽しめそうだな」
 手の中の感触を確かめるように、橘はラケットを軽く振り回しながら、黒羽のサーブが手元に届くその瞬間を待ちわびた。


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