休日

 東京と千葉は隣あってはいるものの、東京の西側に居を構える橘家から、房総半島の南側に位置する六角中までの距離は、相当なものだった。
 一泊二日か二泊三日か。とりあえず宿泊を考えて当然の小旅行とも言える距離なのだが、黒羽春風と言う男があんまり気軽に「来いよ」と言うものだから、橘はうっかり気軽に赴いてしまった。
 時刻表も見ずに家を出たために作ってしまった多大な時間のロスを含めて、三時間。加えて、中学生の財布には少々厳しい電車賃。
「……遠いぞ、黒羽」
 駅に迎えに来ていた黒羽に、開口一番放った言葉はそれだった。「よう」だの「元気か?」だの、お決まりの挨拶のしてやる気にもならない。
「そうか? でもま、たまにはいいだろ。俺たちなんか大会がある度にこの距離電車乗ったりバス乗ったりしながら行くんだからよ」
 何の含みもなく自然に、「勝ち進む度」ではなく「大会がある度に」と言えてしまうとは恐れ入る。さすがは古豪と歌われる名門六角中だなと、橘は胸の奥で感心した。
「それで、何のために俺を呼んだ?」
「ああ、今日な、潮干狩りの日だからよ」
 黒羽は男らしく力強い笑顔でそれだけ言って、橘に背を向けて歩き出した。
 潮干狩りだから、なんだと言うのか。
 彼ら六角中の生徒にとって潮干狩りと言うイベントがどれほど重要なのか橘には測りかねる。誘われた事を光栄に思って良いのか――実に判断が微妙だった。
 とりあえず置いていかれないように、後をついていく。せっかくここまで来たのだから、その潮干狩りとやらに参加するしなければ。
「暑いな」
「ああ、まだ、夏だな」
 高く輝く陽の光も、肌にまとわりつくような空気も、けたたましく叫び続ける蝉の声も、残暑と言い捨てるには惜しいほどに夏だった。
「夏の大会が終わったのも、ほんの数日前だからな」
 喜びも苦い思い出も数あれど、すべては胸の中に、美しい思い出として永遠に残るだろうと橘は思う。橘にとってのこの一年は、少なくとも今まで生きてきた十五年間の中で最も充実した一年で、この先これほど素晴らしい一年が果たしてあるのだろうかと思えるほどだ。
 その思い出を形成するに欠かせない後輩たちや妹のことを、橘はふと思い出した。
「黒羽、潮干狩りなら潮干狩りだとはじめから言ってくれ。そうすれば、あいつらも一緒に連れてきたのに」
 テニスばかりのこの夏、彼らは海に遊びに行く事すらできなかっただろう。
 クラゲが増えて泳ぐにはそろそろ辛い時期であるし、潮干狩りとは中学生がやるには少々渋いかもしれないが、それでも夏の雰囲気を楽しむ程度の事はできたのではないかと思う。
「あー、駄目だな。今日はお前限定。妹も含めて後輩たち一切お断り」
「なぜだ?」
「千葉の海のアサリの生態系が崩れる」
 それはいくらなんでも、と反論しようと口を開けた瞬間、
「って言うのは冗談でな。素人に生態系崩されるほど千葉のアサリは甘くねえ」
 黒羽は振り返り、いつもの豪快なものではなく、口元にうっすらと笑みを浮かべるにとどめる。
「ならば……」
「こないだの期末テストの時な」
 黒羽は橘が言葉を挟むのを許してはくれなかった。
 高い陽射しが作る短い影を踏みながら、橘は黒羽の顔を覗きこむ。
「テスト中は部活禁止されててな、終わって、久々にマトモに部活ができるってんで嬉しくて、午後から日が落ちるまでぶっ通しで、ほとんど休憩も取らずにテニスやってた」
「ずいぶんとタフだな」
「まあな。でも楽しくてよ、辛いなんてこれっぽっちも思わなくて、ずっとずっと打ち合ってたさ」
 六角中は楽しそうにテニスをする学校だと、橘は常々思っていた。
 自分達のテニスを愛する心が六角中の面々に負けているとは、橘も思わない。しかし幼い頃からテニスと共に生活してきた彼らにとって、テニスをする事が呼吸する事と同じように自然なものである事をふまえると、楽しむ心の余裕が、だいぶ違うように思うのだ。
「だからすっげー疲れた。家帰ってメシ食って風呂にも入らずに朝まで寝てた。遅刻寸前までな」
「それは……当然だろう」
「ああ、当然なんだよ」
 黒羽はひとつ大きく伸びをして、そのまま上半身をひねって振り返る。
 軽く握られた拳が眼前に迫り、突然の事に少々慌てつつ、橘は拳を避けた。
「お前がこれっぽっちも負担だなんて思ってない事は知ってる。でもな、これっぽっちも負担に思ってない事でも、楽しい事でも、幸せな事でもさ、ぶっ続けでやってりゃ、自分で気付かねえとこで疲れちまうんだよな。だからお前も、たまには休まねーと」
 何を、と反射的に訪ねようとして、橘は言葉を飲み込む。
 ああ、だから、潮干狩りを言い訳にして、東京からずっと離れたこの地に、わざわざ橘ひとりだけを呼び寄せたのだ。黒羽春風と言う男は。
 橘は黙って黒羽を見上げた。
 いつか、我知らず疲労の重なりで歩みを止めたかもしれない自分を思うと、ここで感謝の言葉のひとつでも捧げるべきかもしれない。
 しかしどうしても胸を去来する寂しさを思うと、それを素直に口にするのははばかられた。
「でもなあ、潮干狩りって聞いて最初に思い出すのが後輩たちの事なんて、お前根っから『橘さん』なんだなあ」
 黒羽が呆れた口調で紡いだ言葉を、ため息と共に吐き出す。
「そのようだな」
 橘は静かに、柔らかく微笑んだ。
「本当にお前、幸せそうに笑うよな」
「当然だ。幸せだからな」
「のろけんなよ」
「たまにはいいだろう」
 橘が答えると、黒羽は腹を抱えて笑う。よくもまあそこまで、と、橘が呆れてしまうほどに、長く長く笑い続けていた。
「いいかげん止めろ」
 黒羽の後頭部をはたき、ふと前方を見上げると、コンクリートで舗装された細い道の向こうに、青く輝く光がちらつく。
 ああ、海までもう少しだな。
 海の青さが奇妙なほど眩しく思え、橘は薄く目を細めながら歩き出した。



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