「黒羽さんって春風って言うんでしょ? 春生まれなの?」 「いや、秋だ。9月」 「本当? じゃあ、なんで春風なの?」 「『春一番』みたいな奴、ってことじゃないのか」 「……どういう意味だ橘」 顔を見合わせてあけっぴろげに笑う橘兄妹と、その間で憮然としている長身の黒羽と。 3人のやりとりを聞くともなく聞きながら、伊武は傾きかけた西日に目を細めた。 黒羽春風。 遠く千葉からやってきたその男は確かに(橘の説に従うならば)、その名のとおり春先の強風のようだった。 唯一の3年生である部長・橘と、後輩の部員たち6人。それが不動峰テニス部の成員だ。唯一の例外である杏を除いては、いままでこの構図を崩した者はいなかった。 そこに前触れもなく突然現れたのが黒羽だった。強風……というよりもむしろ嵐のように、橘と自分たちのあいだに割り込んできたこの男に、戸惑いや反感を抱いていた者もいたはずなのだが――気がつけば黒羽は、違和感なく彼らの「仲間」におさまってしまっていた。もはや黒羽が客人だという感覚は、彼らの中にはほとんど残っていない。 風のあとには春が来るんだよな、そういえば。そんなことを一瞬だけ考えてしまったのがなんとなく癪で、伊武はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、足元の小石を軽く蹴飛ばした。 俺はどうでもいいんだけどね、橘さんが良ければそれで。 ぼんやりとそう思いながらもう一度小石を蹴ろうとしたとき、足元に長い影が伸びた。 「……伊武」 「……何?」 見上げるとそこに、これまたでかい図体の男が背中を丸めて立っている。 「小石……」 「……は?」 「小石が恋しい。……ぷ」 「……」 彼が、黒羽が千葉から連れてきたもうひとりの『嵐』だった。天根、とかいう名前で、黒羽にはダビデと呼ばれて可愛がられたりいじられたりしているらしい後輩だ。 黙っていればいいのに、いざ口を開くとこんなことばかり言い出すのだから手におえない。こういうときは黒羽が威勢のよい蹴りでツッコミを入れてくれて、それで一段落するはずなのだが、あいにく今彼は橘たちとの会話に熱中していてこちらに気づく様子はない。 伊武は天根を冷たく一瞥すると、薄く口を開いた。 「……小石の何がいいわけ。訳が解らないんだけど。意味もないしうまくもないし。せめてもう少しまともなことを言えよな。……」 「うぃ」 長い付き合いであるテニス部の仲間たちさえ恐れて相手にしようとしない伊武のぼやきにも、天根はなぜか嬉しそうにうなずきながら答える。何が気に入ったのか知らないが、さっきから伊武の反応を楽しむように、くだらないことを言っては後ろをついてくるのだ。 「ねぇ、伊武」 ひととおりぼやき終わって再び黙り込んだ伊武に、天根は顔をのぞきこむようにしながら声をかける。伊武が顔を上げると、彼はぼそりと呟いた。 「教えて。名前」 名前教えろって、呼んでただろたった今。 そうぼやきかけたところで、伊武は天根の真意に気づく。……あぁ、下の名前ってことか。まだ紹介されてなかったっけか。だいたい俺の名前なんか知ってどうするんだよ。まあいいけど。 期待に満ちた目で天根が見つめる中、伊武はゆるゆると片手をあげて、指で空中に自分の名前を書いた。 深・司。 「……?」 指の動きが速すぎたのか、天根は真顔のまま首をかしげる。伊武は彼の表情をちらりと見て、今度はもう少しゆっくり字を書いてやる。 「…………?」 が、天根の反応はあいかわらず鈍いままだ。 「……今のでも解らないわけ。ひょっとしてバカ?」 「も、もう一回」 ため息をつきながら、伊武はまた指を動かした。天根はそれでやっと理解できたのか、「深い、に、ツカサ」口にしながら何度も頷く。 「深い、ツカサ。……シンジ?」 「そう」 「イブ、シンジ……」 天根は教えられた名前を反芻し。 そして不意に、立ち止まった。 「……嘘だ」 「は?」 「そんなの嘘だ……」 怪訝に思って伊武も立ち止まり、振りかえる。凍りついた無表情になにか尋常でないものを感じて、無視することもできずについ声をかけてしまう。 「……何。どうしたの、お前」 「伊武の名前がシンジだなんて、俺、シンジない……!」 「……」 一陣の風が二人の間を吹き抜けて。 しばしの沈黙の後―― 「なんだよそれ。人の名前聞いといてそれはないんじゃない。第一失礼だよ俺に対して。親のつけてくれた名前なんだからさ。もちろん俺の親に対しても失礼だよな。別に信じようが信じまいがどうでもいいけどさ、失礼だよな。まったくムカつくよなぁ。人の名前をそんなくだらない冗談に使うなんてさぁ。……」 伊武のぼやきが炸裂した。 名前をギャグに使われたこと――というよりも、彼の芝居にまんまと引っかかった自分の浅はかさに、ちょっと腹が立ったのだが。 延々と続くぼやきを嬉しそうに聞いている天根を見ているうちに、なんだか腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。浅いため息で言葉を切ると、天根は満足そうに頷きながら意外な事を言った。 「これで、伊武に年賀状出せる」 「年賀状? それで名前聞いたの」 「うぃ。来年は年賀状出すね」 「……来年って。俺なんか今年の年賀状もまだ出してないのに。今年はまだ362日も残ってるのにもう来年のこと考えてるわけ、お前気が早すぎるんじゃないの。来年のことを考えると鬼が笑うって言うけどさぁ。……」 「う、うぃ。じゃあ千葉に帰ったら今年のぶん出す」 「え……いや。別にいいけど」 慌てて手を振る天根から、伊武は気まずそうに目をそらした。これじゃあ俺がねだったみたいじゃないか、ふとそう思ってしまったのだ。 そんな気持ちを知ってか知らずか、天根は自分の顔を指差してぽつりと告げた。 「俺、ヒカル」 「ひかる……?」 「名前。天根ヒカル。ヒカル、はカタカナ」 「……」 変わった名前だな。まぁダビデよりはずっと普通だけど。 さっき自分の名前をネタにされて少しムカついただけに、伊武は天根の名前についてぼやくのは止めておいた。 しかし、どういうつもりで名前なんか教えたんだろうコイツ。やっぱり…… 黙り込んだ伊武に、天根は嬉々として、 「俺の名前がヒカルなのが、そんなに引っかかる? ……ぷっ」 「――お前はさっきから何回そんなこと言ったら気が済むんだよっ!」 長い足が旋回して天根の背中を蹴り飛ばす。天根の長身が飛ばされるのを伊武は目で追った。 橘との会話も一段落して、ようやく「本来のツッコミ」が復帰したらしい。足型のついた背中を押さえながら、天根は目を輝かせて黒羽を見上げる。 黒羽は後輩の眼差しを無視して伊武に向き直ると、満面の笑顔で告げた。 「コイツに年賀状出すなら、ついでに俺にも出してくれよな、伊武!」 「……」 やっぱりそういうことだったのか。 伊武が黙ったままでいると、ふと肩に手が置かれる。振り仰ぐとそこに、楽しげな微笑を浮かべた橘が立っていた。 「出してやれ、深司。ふたりの住所は俺が教えてやるからな」 「……はぁ……まあ。はい」 橘が言うなら仕方ない。伊武が返事をすると、黒羽と天根は二人して嬉しそうに表情を明るくした。 「よっしゃ! 俺も出すな〜。あ、できればお年玉付き年賀はがきで頼むな」 「……それはさすがに図々しいんじゃないのか黒羽」 「だってお前楽しいじゃねぇかあの抽選! 今年こそは切手シート以外のもん当てたいんだよ俺」 「俺去年ふるさと小包当たった」 「そうなのか? すごいな、天根」 「それで去年さんざん自慢されたんだよな……ちくしょうっ」 たちまち、新たな話題に花が咲く。 楽しそうな彼らを見つめながら、まぁ年賀状の一枚くらい出してやってもいいかな、と伊武は思った。 強風がおさまったあとには春が来る。 千葉からやってきた『嵐』のおかげで生まれた胸の中の小さな暖かさに、伊武はまだ自分でも気づいていない。 END. 冒頭の千葉’sだけでも充分幸せだと言うのに かわいいかわいいダビ&伊武のお話が……! ええいお前らもとっとと千葉で一緒に幸せになっちまえ! と こころの底から思いました。はい。 えぬはらさん、本当にどうもありがとうございました! えぬはらさんのサイトはこちら。 嬉遊曲 |