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すべては、そこで


 すべては、そこで終わるのだ。

 神の台座があると言われる頂に辿りつくまでに、ひとつでも多くの美しいものを、皇女エレオノールに見せてやりたい。軋むような痛みを胸に抱えながら、騎士アルサスはそればかりを考えていた。
 今はもう山の中だ。豪奢な王城で雅な宝飾品に囲まれて生きてきたエレオノールを満足させるものなど、あるわけがないだろう。それでもアルサスは必死に探した。たとえば野に咲く小さな花を。たとえば地上より僅かに冷たい清冽な空気を。たとえば漂う濃い緑の香りを。
 残された時間は少なかった。頂上は、もうすぐそこまで迫っているのだ。周囲に高度の低い大地が広がっているから目立つだけで、元々そう高い山ではない上、何とか道と呼べるものがあるところまでは、馬で登ってきてしまった。歩いて進む距離は、さして長くない。
 エレオノールのか弱い足にできるかぎり負担をかけまいと思ってした事だが、過ちだっただろうか。少しでも到達を遅らせるために、地上からゆっくり、一歩ずつ進むべきだっただろうか。
 アルサスは後悔したが、意味がない事は判っていた。今更麓に戻ってやり直す事など、できやしないのだから。
「不思議。地上から見た時は、この山に登れば雲に手が届くのではないかと思えたのに。雲は、空は、地上から見た時と同じくらい遠い」
 天に向けて白き手を伸ばすエレオノールの声の明るさに、アルサスは驚いた。エレオノールの心は、アルサスと同じかそれ以上に陰り、怒りを抱いていると信じていたからだ。
 いや、あるいは。エレオノールの儚い笑みを横目で見ながら、アルサスは一瞬にして考えを改める。エレオノールの心は、アルサスのものと比較にならないほど暗い闇との戦いの末、強く尊いものを手に入れたのかもしれない、と。だからこそ、笑っていられるのかもしれないと。
 そうでなければ、自ら歩みを進める事など、できやしないだろう。すぐそこに迫る神の台座――それはエレオノールにとって、死地であるのだから。

 大陸全土を支配する皇帝には、ただひとり心を預ける者が居たが、それは皇妃や皇子や皇女などの血族ではなく、若き日からの友、古代人の末裔であるひとりの占い師だった。
 この帝国において、占いや、遠い時代に衰退した古代人の血を、尊ぶ風習はない。だが、占い師バドルだけは特別だった。彼の占いが、一介の戦士でしかなかった若者を王位に導き、多くの戦で勝利を呼び、小国を強国へと進化させた事を、帝国の民は知っているからだ。
 故にバドルの発言は、時として皇帝その人の言葉よりも強い力を持つ。
 その声がある日言ったのだ。
「第一皇女エレオノールは呪いの子。
 皇女の生はこの国に衰退を呼び、皇女の死はこの国に滅びを呼ぶだろう。
 この国を守るは、古代の神のみ。
 神の力の届くところで、皇女の命を絶つ事によって、国は守られる。
 ただし血にまみれた死はいけない。国に呪いが残る。
 急激な死もいけない。国に苦痛が残る。
 皇女よ、貴女は、緩慢な死によって神の御許へ旅立つのだ」
 と。

 エレオノールと共に歩む中で、アルサスはたびたび考える。自分は何に憤っているのだろうと。
 残酷な死を平然と語った占い師にか、占い師の言葉を即座に受け入れ娘に死を強制した皇帝その人にか、愛らしい皇女の死に立ち会う勇気を持たず麓で待つ騎士たちか――誰に何に逆う事なく、皇女を死に導く自分自身にか。
「アルサス、見えましたよ」
 エレオノールの静かな声が、うつむきがちだったアルサスの顔を上げさせた。
 つい先ほどまで空に伸びていた指が示す先には、平らに均された地面の上に、円を描くように立ち並ぶ九の石柱。そして、中心に置かれた、直方体の石台。全てに奇妙な文様が細かく刻まれており、どことなく、占い師バドルが放つものと同じ空気が漂っていた。
「綺麗ですね」
「そうでしょうか。私には奇妙な飾りにしか見えません。古代人たちの趣味は理解できない」
 素直な感想を吐露すると、エレオノールはくすくすと笑った。
「趣味が理解できないのは、わたくしも同じ。ですから、美しいとは思いません。けれど、これらの石が古代からここに存在し続けているのだとしたら、恐ろしいほど綺麗だと思いませんか。長い時間雨風にさらされ続けたでしょうに、欠ける事も磨耗する事もなく、今に残っているのですから」
 言われてみれば、確かにその通りだった。
 アルサスは石柱に歩み寄り、そっと撫でてみる。石の冷たさと共に、丁寧に磨かれただろう滑らかな肌触りが伝わってきた。
「自然や時の流れに逆らう力を、古代人は有していたのでしょうか。ならば、あのバドルの力にも納得いくと言うものです」
 言ってエレオノールは、石柱とアルサスの横を通り抜け、石台に近付く。確かめるように表面上に手を滑らしばらく無言で見つめた後、長い息を吐くと、台座の上に乗った。
「美しい」
 アルサスよりもずっと高い位置から地上を見下ろし、エレオノールは言った。
「ここからは遠くがよく見えます。帝国内だけでなく、他の国までも。数多の色が広がって輝いていますよ。わたくしが今まで目にしたどんなものよりも眩しいかもしれません。お前にも見せてあげたいくらい」
「エレオノール様」
「けれど、それはできません。ここに立てるのは、わたくしだけの特権ですからね」
 エレオノールは薄く笑みを浮かべながら、胸を張って両手を広げた。可憐な唇を小さくふるわせ、冷たい空気を静かに吸い込む。
「良かった」と、アルサスは呟いた。エレオノールに聞こえないよう、小さく。
 エレオノールは最期に、とても美しいものを目にしたのだ。
「アルサス」
「はい」
「お前はわたくしをここまで送り届ける事以外に何を命じられているのです」
「は……」
 言葉を失ったアルサスが答えられないでいると、エレオノールは続けた。
「わたくしが逃げないよう、最期の瞬間まで見届ける事ですか。それとも、何らかの形でここに拘束する事ですか」
 エレオノールはけして振り返らず、胸の前で手を組む。はじめは弱く、やがて、力を込めて固く。
「私、は……」
 選択肢を用意されても、やはりアルサスは答えられなかった。エレオノールから目を反らし、それでも足りず目を閉じ、拳の震えを抑えようとする。
「両方ですか」
「!」
「なるほど。父はわたくしを侮っているようです。わたくしを、ひとりで死ぬ事もできない弱い娘だと」
 柔らかな声で皇帝を侮る言葉を残したエレオノールは、台座に膝を着く。
 おそるおそるエレオノールの様子を覗き見たアルサスの目に映ったのは、必死に祈る横顔に貼りついた、いびつな笑みだった。
 アルサスは数歩進み、エレオノールの表情が見えない場所へ移動した。すなわち、エレオノールの背後に。落ちようとする太陽に向けて頭を下げる後姿は、神々しかった。
 エレオノールは逝けると思っているのだろうか。何者の手も借りる事なく、ただひとりの力で、古代の神の元へ。
 アルサスには考えられない事だった。剣で己の身を突くならば、毒を飲むならば、谷底へと飛び込むならば、あるいはできるのかもしれない。だがエレオノールにはそれらの方法が許されていないのだ。ただひたすらこの場にとどまり、飢えるか乾くかで命が絶える日をひたすら待つ事しかできないのだ。それは想像するだけで苦しく辛い日々で、途中で逃げ出さないためにはどれほど強い意志が必要なのか、アルサスには想像すらできなかった。
 なぜ、苦しんで死なねばならない。まだ若く美しい皇女が、国のために死を選ぶだけで、充分だろうに。
 無防備な背中を見つめながらアルサスは、ゆっくりと剣の柄に手を伸ばす。
 せめて。せめて、苦しみを一瞬で終わらせてやるくらいは――
「おやめなさい、アルサス」
 剣を引き抜くより一瞬だけ早く、エレオノールの声がアルサスを止めた。
「わたくしを斬ればその剣が穢れます。お前の身にも呪いがふりかかるでしょう」
「ですが」
「皇帝から賜ったその剣を、お前がどれほど大事にしているか、わたくしは知っています。ですからもう一度言いましょう。おやめなさい。わたくしはそのような救いを望んではおりません」
 アルサスはふるえる手を柄から放し、そのまま顔を覆った。
 体が崩れ落ちる。膝に、土が触れた。柔らかい、けれど少し固い土は、アルサスを冷たく受け止めた。
「私は他にどうすれば、貴女をお救いする事ができるのですか」
 問うと、エレオノールが振り返ったのが判った。まっすぐ伸びる長い髪が揺れ、さらりと音を立てたのだ。
「お前はこの国の騎士。国を救う事だけを考えれば良いでしょう。なぜ、わたくしを救おうと思うのです」
「お答えせねば判りませぬか」
「……いいえ」
 エレオノールは僅かな間言葉を失った。
「いいえ、アルサス。判っております。他の誰が気付かずとも、わたくしだけは、お前の心を知っています」
 エレオノールは石台を降り、ゆっくりと地面を踏みしめ、アルサスの前に立った。
 顔を覆い隠す手を剥ぎ、ひとつ深呼吸をしてから、アルサスは顔を上げる。
 赤い光を背負う皇女の姿は、さながら女神のように輝く美しさで、古代の神よりも遥かに尊い存在として、アルサスの目に映った。
「お前にとって何よりも大切なものは、わたくし。胡散臭い占い師や、歳を重ね勢いを失った皇帝や、富に溺れ他国を虐げるこの国になど、もう興味を失っているのでしょう」
 アルサスは否定も肯定もせず、ただエレオノールの声に耳を傾けた。
「お前はわたくしの前で、誰よりも騎士でありたかった。だから、占い師の言葉を信じたふりをして、皇帝への忠義に生きるふりをして、国を守るふりをして、わたくしを死へと導く役目を負ったのです」
「愚かな男と、笑いますか」
 エレオノールは無言で微笑んだが、首を振ってアルサスの言葉を否定する。
 白い手が、アルサスの前に伸びた。
「バドルの占いは確かなのでしょう。わたくしは生きる限り、この国を衰退させますから。けれど本当はその程度の事、占いに頼らずとも判るはずなのです」
「どう言う意味でしょう」
「わたくしはね、アルサス、あの中年たちの時代は、すでに終わったと思っているのです。あの中年たちは、帝国一の騎士と呼ばれるお前の忠誠がわたくしにある事にも、わたくしがこの国の支配から他の国々を解放しようと企んでいる事にも、全く気付かず、衰退の理由をただの呪いだと思い込むような、愚か者なのですから」
 風が吹いた。皇女らしからぬ発言をしたエレオノールを責めるように、強い風が。
 その風の中で、エレオノールは悠然と微笑む。強烈な笑みだった。草木のざわめきも、飛び交う鳥たちも、全てが静かなものに感じるほどに。
「彼らはもう、かつての古代人たちのように、潔く消えるべきなのです。けれどしつこく縋って、歪みを産み続け、結局小娘ひとりに怯えている。滑稽にもほどがあります。ですからわたくしが教えます――さあ、アルサス」
 名を呼ばれてアルサスは、目の前にある手を見つめた。
「わたくしのために全てを捨て、この手をとりなさい。共に歩みましょう」
「では、貴女は……命を絶つためにここに来たわけでは」
 エレオノールは力強く頷いた。
「もちろんです。わたくしには、この国のために捨ててやる命などありません。わたくしの命は、弱き国とその民の力となり、醜く肥えたこの国を少しずつ食い潰しながら、大陸をより繁栄させるためにためにあるのです」
 長い沈黙。
 その後、アルサスはうやうやしく礼をし、か細くも凛々しい手をとった。
 時間がかかったのは、迷ったからではない。あまりの感動にふるえた心が、体の自由を奪ったから、それだけだった。
 皇女が語るものは、単なる理想、あるいは、戯言なのかもしれない。それでも、アルサスは信じられる気がした。今てのひらから伝わってくる、熱い、生命の鼓動を示す温もりが、この地上にある限りは。
「この国は、わたくしが何をするにもいささか不便です。まずは、この台座からすらも目が届かない、遠くの国へ」
「はい」
「……お前にはしばらく苦労をかけます」
 エレオノールの言葉に、アルサスは首を振る事で答えた。
 いいえ。
 いいえ、エレオノール様。
「貴女のために生きる事に、何の苦労がありましょう」
 少しだけ、呆けたように無表情になってから、エレオノールは微笑んだ。優しく、柔らかく、まるで花のように。
 そして指し示した。広い川を越え、遠くに連なる山脈の向こうを。

 すべては、そこで始まるのだ。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.